久々に、光太郎詩の引用から始めます。
大正元年(1912)、雑誌『抒情詩』第2巻第12号に掲載された「冬の朝のめざめ」。
後に詩集『道程』(大正3年=1914)、さらに『智恵子抄』(昭和16年=1941)にも収められました。
冬の朝のめざめ
冬の朝なれば
ヨルダンの川も薄く氷りたる可べし
われは白き毛布に包まれて我が寝室(ねべや)の内にあり
基督に洗礼を施すヨハネの心を
ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を
我はわがこころの中に求めむとす
冬の朝なれば街(ちまた)より
つつましくからころと下駄の音も響くなり
大きなる自然こそはわが全身の所有なれ
しづかに運る天行のごとく
われも歩む可し
するどきモツカの香りは
よみがへりたる精霊の如く眼をみはり
いづこよりか室の内にしのび入る
われは此の時
むしろ数理学者の冷静をもて
世人の形(かたちづ)くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る
起きよ我が愛人よ
冬の朝なれば
郊外の家にも鵯ひよどりは夙に来鳴く可し
わが愛人は今くろき眼を開(あ)きたらむ
をさな児のごとく手を伸ばし
朝の光りを喜び
ヨルダンの川も薄く氷りたる可べし
われは白き毛布に包まれて我が寝室(ねべや)の内にあり
基督に洗礼を施すヨハネの心を
ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を
我はわがこころの中に求めむとす
冬の朝なれば街(ちまた)より
つつましくからころと下駄の音も響くなり
大きなる自然こそはわが全身の所有なれ
しづかに運る天行のごとく
われも歩む可し
するどきモツカの香りは
よみがへりたる精霊の如く眼をみはり
いづこよりか室の内にしのび入る
われは此の時
むしろ数理学者の冷静をもて
世人の形(かたちづ)くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る
起きよ我が愛人よ
冬の朝なれば
郊外の家にも鵯ひよどりは夙に来鳴く可し
わが愛人は今くろき眼を開(あ)きたらむ
をさな児のごとく手を伸ばし
朝の光りを喜び
小鳥の声を笑ふならむ
かく思ふとき
我は堪へがたき力の為めに動かされ
白き毛布を打ちて
愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり
冬の朝なれば
こころいそいそと励み
また高くさけび
清らかにしてつよき生活をおもふ
青き琥珀の空に
見えざる金粉ぞただよふなる
ポインタアの吠ゆる声とほく来れば
ものを求むる我が習癖はふるひ立ち
たちまちに又わが愛人を恋ふるなり
冬の朝なれば
ヨルダンの川に氷を噛まむ
かく思ふとき
我は堪へがたき力の為めに動かされ
白き毛布を打ちて
愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり
冬の朝なれば
こころいそいそと励み
また高くさけび
清らかにしてつよき生活をおもふ
青き琥珀の空に
見えざる金粉ぞただよふなる
ポインタアの吠ゆる声とほく来れば
ものを求むる我が習癖はふるひ立ち
たちまちに又わが愛人を恋ふるなり
冬の朝なれば
ヨルダンの川に氷を噛まむ
「わが愛人」は智恵子。現代とは「愛人」の語の指す意味が異なります。「恋人」に近い意味合いでしょう。
「起きよ」と言っても、光太郎の傍らで眠っているわけではありません。二人が共同生活を始めるのはもう少し後。「郊外の家」というのが当時智恵子が暮らしていた雑司ヶ谷の借家で、そこで目覚めるであろう智恵子の姿を推量しているわけです。
光太郎はクリスチャンではありませんでしたが、冬の朝の爽やかな目覚め、清冽な空気の中で、敬虔な宗教的感動といった感覚が呼び起こされたのか、キリストやヨハネを想起しています。また、掲載誌の発行が12月ということも忖度し、クリスマスに絡めたとも考えられます。もっとも、イエスの降誕をことほぐ当方の三博士ではありませんので、考え過ぎかも知れません。
少し前になりますが(今月7日)、『宮崎日日新聞』さんの一面コラムでこの詩を引いて下さいました。
くろしお ヨルダン川は凍っているか
昨日の朝は宮崎市で氷点下になるなど、県内はこの冬一番の冷え込みだった。白くなる息を見て、思い出したのが高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「冬の朝のめざめ」だ。
冒頭に「冬の朝なれば ヨルダンの川も薄く氷(こお)りたる可(べ)し」とある。ヨルダン川は中東シリアのゴラン高原から南に流れ、死海へ注ぐ川。ヨルダンとイスラエル・パレスチナ自治区との国境になっており、沿岸部も含めて度々、聖書の主要な舞台として登場する。
下流に近いエルサレムもその一つ。地図を見て驚いた。宮崎市と同じ北緯31度。遠い異文化の町ではあるが、毎日同じ角度の太陽を眺めていると思うと親近感を覚える。地中海性気候だが、冬にはたまに雪が降るという点でも似ている。
本当にヨルダン川が凍る日もあるかもしれない。キリスト教に関心があった光太郎は度々かの地に思いをはせていたのだろう。ただ「智恵子抄」が出た当時は、イスラエルが建国する1948年より以前だから、その後の激しい紛争については知る由もなかった。
本当にヨルダン川が凍る日もあるかもしれない。キリスト教に関心があった光太郎は度々かの地に思いをはせていたのだろう。ただ「智恵子抄」が出た当時は、イスラエルが建国する1948年より以前だから、その後の激しい紛争については知る由もなかった。
三つの宗教の聖地エルサレムが再び揺れている。首都問題は建国以来くすぶっていたが、トランプ米大統領がイスラエルの首都と認める意向を示したことに対してアラブ諸国が一斉に反発、欧州や国連も米国の行動に懸念を強めている。
中東の紛争は宗教に加え民族や部族の対立が絡み合って、他国が介入するほど泥沼に陥りやすい。トランプ氏には現地の寒さに肌感覚で思いをはせる慎重さが求められよう。同じ角度の太陽を仰ぐ者として問題の平和的な解決を切に願う。
メインは米国トランプ大統領の、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転するという発言に対してですが、時宜を得たうまい引用です。
「問題の平和的な解決を切に願う。」九泉の光太郎もそう願っていることでしょう。
【折々のことば・光太郎】
少し誇張して言ふと、芸術が分るといふ事は人間の心の深さの尺度になると言へる。よき芸術家は必ず深い心を持つてゐる。深い心がなくてはよい芸術は出来ないのだ。その深い心の汲めない人はあやしい。
散文「芸術鑑賞その他」より 大正8年(1919) 光太郎37歳
世界の指導者の皆さんが、芸術のわかる人、深い心の汲める人であってほしいと願います。どう考えてもそうでないとしか思えない人、その人のポチも居るのが残念ですが。