昨日から1泊2日で、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。
昨朝、10時台のやまびこ号に乗り、一路、花巻へ。郡山近辺で雪がかなり積もっており、これは雪中行軍となりそうだと思っていたところ、局地的なものだったようで、その後は仙台を過ぎ、一関あたりまで雪はほとんど見られませんでした。しかし安心していたのもつかの間、水沢、北上と進むにつれ、再び銀世界に。1時30分過ぎに着いた新花巻駅前は、こんな感じでした。

光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを目指し、レンタカーを駆りました。雪道の運転は久しぶりでしたが、つつがなく到着。除雪車も出ており、ありがたかったです。
花巻市街より標高も高く、山ふところ的な場所ですので、こんな感じ。しかしこれでもピーク時に比べれば、てんでまだまだの積雪でした。




記念館さんでは、先週の土曜から、花巻市内の文化施設5館の共同開催、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「高村光太郎 書の世界」展が始まっています。
地元報道機関に案内を出し、内覧会的に、館のスタッフ氏と当方による展示品等の解説などを行いました。花巻ケーブルテレビさん、『読売新聞』さんがいらしていました。ケーブルテレビさんは当方の解説を撮影。緊張しました(笑)。他社は既に取材を終えていたりということでした。NHKさんは、この日に行われた5館を廻るバスツアーに同行、午前中に取材されたとのこと。今朝のローカルニュースで流れましたが、明日、ご紹介します。
常設展示以外に、今回、特に展示されているのは11点。珠玉の書ばかりです。ほとんどが、光太郎がこの地にいた戦後のものです。



左は「美ならざるなし」。二重否定は強い肯定(笑)。右は、花巻のリンゴ農家、故・阿部博氏に贈ったもので、阿部氏を歌った即興詩「酔中吟」が書かれています。
奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光 紅玉 ヂリシヤス
「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。七・七調四句の俗謡体、おそらく即興で作ったものです。

地元の太田中学校(現・西南中学校)に贈った書。「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。

左は詩「偶作十五篇」(昭和2年=1927)中の「急にしんとして山の匂いのして来る人がある」。揮毫は昭和20年(1945)だそうです。右は「詩とは不可避なり」。昭和3年(1928)に刊行された草野心平の詩集『第百階級』の序文に書いた「詩人とは特権ではない。不可避である。」あたりが下敷きになっています。


「こころはいつもあたらしく」。昭和25年(1950)、盛岡少年刑務所に贈った書の下書き的なものと推定されます。完成形は「いつも」ではなく「いつでも」となり、現在も同所の所長室に掲げられています。太田中学校と同じく、やはり青少年向けということで、句がかぶっています。
「日月清明」「皆共成仏道」「不垢不浄」、それから左下の「顕真実」。このあたりは光太郎が習慣としていた新年の書き初めです。山小屋周辺の住民に贈られました。すべて出典は仏典で、信心深かったこの辺りの住民への心遣い、また、自身も仏の教えへの関心が高まっていたことの表れかも知れません。


右上は、花巻市桜町に建つ、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の拓本です。光太郎の揮毫により昭和11年(1936)に建立されましたが、誤字脱字の追刻が昭和21年(1946)に行われ、それ以前の拓本です。当時としては珍しく、写真製版で縮小されています。
これ以外にも、常設展示で書が飾られており、そちらも含めると、かなりの点数になります。中にはおそらく初公開と思われるものもあります。
ところで、記念館さん入り口ではサンタクロース姿の光太郎がお出迎え(笑)。

クリスマスが近いというだけでなく、昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会で光太郎がサンタに扮した故事にちなみます。

記念館さんを後に、山小屋まで歩きました。

冬期間は、外からしか見られませんし、バリアフリーの工事が入っています。まだまだこれから積雪が増え、雪で埋まります。まったくこんなところでよくぞ7年間も……と、改めて思いました。厳冬期のこの小屋を見ずして、光太郎を語るなかれと思います。
この後、再びレンタカーを駆って、光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんへ。

以下、また明日。
【折々のことば・光太郎】
芸術は人間を慰めるものでなくて、人間を強めるものである。面白がらせるものでなくて、考へさせるものである。人間をひき上げるもの、進ませるもの、がつしりさせるもの、日常の苦しみを撫するに姑息を以てするのでなくて、其苦しみに堪へる根帯の力を与へるものである。
散文「芸術雑話」より 大正6年(1917) 光太郎35歳
光太郎にとって「書」も、こうした芸術の一環だったと思われます。