一昨日、目黒の五百羅漢寺さんで開催された「第2回らかん仏教文化講座 近代彫刻としての仏像」を拝聴して参りました。
講師は小平市立平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏。連翹忌にもご参加下さっていますし、その他色々お世話になっております。
日本近代彫刻家の中でも、特に木彫系の作家に的を絞ってお話しされました。やはり、木彫系はその源流の一つが仏師であることからです。
ほぼその成年により、5つの世代グループに分け、それぞれの仏像へのスタンス、彫刻界全体での位置づけなどについて、細かく上げられました。
第一グループは主に江戸時代生まれの人々。光太郎の父・高村光雲を筆頭に、竹内久一、森川杜園、後藤貞行、山田鬼斎、石川光明など。純粋な仏師出身は光雲だけですが、それぞれ根付や人形など江戸期の職人の系譜に連なります。この世代は作品としての仏像を多く手がけ、仏像制作が副業という意識が希薄だったそうです。また、東京美術学校の教員となった彼らは、乏しい学校予算を補うためにも仏像の修復や模刻にあたるなどもしていました。
第二グループで、平櫛田中、山崎朝雲、米原雲海、内藤伸、加藤景雲たち。光太郎より若干年長で、まだ西洋を本格的に知らなかった世代です。彼らの多くは光雲門下。仏像も多く制作しましたが、それは副業的な位置づけで、むしろ仏教を主題とした作品が目立ちます。この世代が職人的な技術重視から、芸術家としての表現重視への転換期にいたとのこと。
光太郎を含む第三グループ。他に光太郎とほぼ同年代の石井鶴三、佐藤朝山(玄々)。仏像はあまり制作せず、西洋彫刻と日本彫刻の融合を図った人々と位置づけられました。しかし仏像への関心も高く、推古仏の美しさなどに初めて注目したのもこの世代といえます。実際、光太郎には仏像に関する評論等も少なからずあります。
光太郎より少し若い第四グループ。橋本平八、長谷川栄作、大内青圃、陽咸二ら。彼らは仏像の特徴に意識を向けた世代だそうです。
第五グループは、第四グループと同世代ですが、展覧会等に仏像や仏像風の彫刻を多数出品した人々。三木宗策、関野聖雲、後藤良(後藤貞行の次男)が挙げられています。
この流れが薮内佐斗司氏らの現代作家へも連なるというわけですが、途中に戦争とのからみもあったり、いろいろ複雑です。
それぞれのグループの作品などの画像をスライドショーで提示しつつ、非常にわかりやすいお話で、興味深く拝聴いたしました。ただ、氏自身でおっしゃっていましたが、まだまだ研究の途上ということで、作家達の信仰心の問題、この系譜に属さない(彫刻家を志さなかった)仏師達の件などには触れられませんでした。今後ともこのテーマでご研究が進むことを祈念いたします。
こと光太郎に関して言えば、信仰というより、哲学としての仏教、特に禅や仏典にはかなり興味を持っていたようです。揮毫した書には仏典からの引用が目立ちますし、禅宗の「無門関」などは愛読書でした。彫刻でも、ブロンズの代表作「手」は、観世音菩薩の「施無畏」の印相からのインスパイアで、それは最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にも受け継がれます。
閑話休題。会場の五百羅漢寺さんの講堂、ホール的な施設の外側がぐるっと回廊のようになっており、同時の歴史や、光雲が理想としていた江戸時代の仏師・松雲元慶など関連する人物に関する展示なども為されており、開会前と休憩時間に興味深く拝見しました。松雲元慶以外にも、光雲・光太郎父子に関わった河口慧海、光太郎と親しく、ラジオ放送などでその詩の朗読も手がけた俳優の丸山定夫など。
また、10月に行われた第1回の講座「五百羅漢寺と江戸東京の仏教文化」(講師:同寺執事/学芸員・堀研心氏)のレジュメも戴きました。こちらでも光雲と同寺の関連などが取り上げられています。
昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』の後半、各種復刻版ではカットされている「想華篇」からの引用も為されており、感心しました。
同講座、今後も続き、全12回の予定とのこと。テーマはチラシによれば、仏像写真、仏教映画、仏教絵本、仏教建築、怪異、精進料理、初詣、仏前結婚式、葬儀、墓、仏教文学、仏画、博覧会だそうです。博覧会あたりには、また光雲もからむかな、という気がします。ご興味のある方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
印象派の歩んだ道は、彼等自身の予期しなかつた、或は気が付かなかつた重大な方向へ向かつてゐた。彼等が太陽を呼び、白色を喜び、陰影を追ひ、色彩に耽溺したのは、自然の意志から見れば一つの合言葉に過ぎなかつた。自然はさういふ「新」を彼等に与へて、彼等を跳躍させ、彼等を前進させた。
散文「真生と仮生」より 大正2年(1913) 光太郎31歳
芸術界の流れは、「自然」の意志に従って、流れるべきように流れてきたという持論です。印象派は現れるべくして現れたのだ、というわけですね。このころから光太郎自身も「自然」の意志の赴くままに、と考え、自己の芸術を開花させてゆきます。