甲信レポートを書いていた前後にも、新聞各紙に光太郎の名が出ています。3件、ご紹介します。
まず、先週ご紹介した『朝日新聞』さんの「彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ」の続報的な神奈川版の記事です。
神奈川)彫刻家・高田博厚アトリエ閉鎖 知人らお別れ会
文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと親交があり、晩年は神奈川県鎌倉市のアトリエで制作活動をした世界的彫刻家・高田博厚(1900~87)のアトリエが閉鎖され、知人らが集まって2日、お別れ会が開かれた。遺品は交流のあった埼玉県東松山市に寄贈される。 1931年に渡仏して57年に帰国。66年から86歳で亡くなるまで拠点とした鎌倉市稲村ガ崎のアトリエには同日、親交のあった知人や関係者ら約30人が集まり、お茶を飲みながらピアノ演奏を聞くなど和やかな雰囲気の中、高田の思い出に花を咲かせた。
洋画家で文化勲章受章者の東京芸大名誉教授・野見山暁治さん(96)は留学時代の53年、パリのカフェで初めて高田に会った時の思い出を語り、「君は日本人かと話しかけられ、『そうか、日本人が外国へ来るようになったのか』と感慨深げだった」としのんだ。
東松山市に寄贈されるのは彫刻や絵画などの作品のほか書物や家具など数千点。同市の元教育長が高田と親交があった関係で「高田博厚彫刻展」を開いたり、高田の作品を通りで展示したりしている縁で贈られることになった。
同市の森田光一市長は「遺品をいただけるのは名誉なこと。2020年を目途に何らかの施設を造り、すばらしい芸術家を顕彰していきたい」と話した。
「死後30年」を機に今回の寄贈を決めた高田の義理の娘の大野慶子さん(80)は「父は『彫刻は触ってみるもの』と言って、東松山市の展示を大変喜んでいたので、今回のことも喜んでくれていると思います。多くの方にみていただき、特に子どもたちに親しんでもらえれば」と話した。
高田は石川県生まれ。上京して詩人で彫刻家の高村光太郎らと知り合い、31歳で渡仏。彫刻を学び、「指で思索する彫刻家」と称賛された。死後、鎌倉市には主要な作品や絵画など約300点が寄贈されている。(菅尾保)
同じ件は『東京新聞』さん、NHKさんなどでも紹介されましたが、そちらでは光太郎の名が出なかったので、割愛します。
続いて、『読売新聞』さんの高知版。
詩人・岡本弥太功績たたえ ◇香南で一絃琴演奏、朗読も
「南海の宮沢賢治」と評され、1942年12月2日に43歳の若さで亡くなった香南市香我美町出身の詩人、岡本弥太の没後75年を記念した「岡本弥太祭」が2日、同町の峯本神社で営まれた。 弥太は20歳の頃から詩を書き始め、地元で教べんをとりながら創作活動。1932年には、生前唯一の詩集で中央詩壇から高く評価された「瀧」を刊行した。没後の48年、詩人の高村光太郎の書による詩碑「白牡丹図」が同神社に建てられた。
この日の祭には地元住民らが参列。弥太の孫に当たる岡本龍太さん(59)が「弥太は『自分で二度と詠みたくない詩は、詩ではない』と話していた」などのエピソードを披露した後、市立香我美小の児童有志が、弥太の詩に曲を付けた「わが涙」を一絃琴で演奏した。県立城山高校の生徒ら4人も弥太の詩4編を朗読し、弥太の功績をたたえた。
実行委員長の猪原陸さん(77)は「年々輪が広がりつつあり、弥太も喜んでくれていると思う。次代に引き継いでいくことが大事で、来年も続けていきたい」と話していた。
岡本弥太は、光太郎より16歳年下、明治32年(1899)の生まれ。終生、高知で小学校教員を務めながら詩人として活動していたようです。歿したのは昭和17年(1942)、やはり結核でした。年代といい、地方で活動していたことといい、結核で早世したことといい、光太郎との関わりといい、昨日ご紹介した野澤一を彷彿とさせられます。
生前に上梓した詩集は『瀧』(昭和7年=1932)一冊のみ。翌年に親しかった間野捷魯編集で刊行された『瀧批評集録』に、光太郎からの『瀧』受贈の礼状が掲載されています。
啓。貴著詩集「瀧」及御てがみ忝くおうけとりしました。丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました為めお礼のてがみさへ遅れて失礼しました。詩集はもつとよく落ちついてから精読したいと思つておりますから、その上何か申上げたいと存じます。此事御諒承願ひます。畧儀ながら御礼まで。
素っ気ない気がしますが、仕方がありません。光太郎の弁護を致しますと、智恵子の心の病が昂じ、自殺未遂をやらかした後だったので、それが「丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました」なのです。
戦後になって、高知で岡本の詩碑建立が決まり、イラストレーターの依光隆、光太郎と親交のあった島崎曙海らを介して、光太郎に碑文の揮毫が依頼され、実現しました。昭和22年(1947)、23年(1948)の光太郎日記、依光(旧姓川島)や島崎に宛てた書簡にその辺りの経緯が記されています。それによると、光太郎、驚くべきことに揮毫の礼として送られた小為替1,000円分を、建碑の足しに、と、そっくりそのまま送り返しています。「やるなぁ」という感じでした(笑)。
当方、この碑を見るために、20数年前に高知まで飛びました。
当時は携帯電話など持っていませんでしたので(今ならナビ機能が使えます)、迷いながらもたどり着き、光太郎独特の味のある字を見て、旧友に再会したような感覚にとらわれました。
刻まれているのは『瀧』に収められた「白牡丹図」。
白い牡丹の花を
捧げるもの
剣を差して急ぐもの
日の光青くはてなく
このみちを
たれもかへらぬ
調べてみましたところ、岡本に関しては他にも顕彰の機運が盛り上がりつつあるようで、また改めてご紹介します。
最後に、先週の『河北新報』さん夕刊のコラム。
河北抄 2017年11月29日水曜日
師走を前に寒さが駆け足になりつつある。仙台は初雪が降るとともに最低気温が氷点下になる日もあり、繁華街ではコート姿の人たちを多く見掛ける。冬の季語に「セーター」や「カーディガン」がある。家はもちろん、職場でも背広を脱いで装う人は結構いるだろう。
頭の中のたんすにしまい込んだ記憶がある。1994年の今頃、現大リーガーのイチロー外野手(44)は当時所属するプロ野球オリックスと、年俸800万円から10倍増の8千万円(金額はいずれも推定)で来季契約を結んだ。「大金を何に使いますか」と記者に尋ねられると、「いいセーターを買います」と答えた。
車でなく、家でなく、貯金でもない。毛糸の編み物。背伸びをせず肩肘張らずに自然体で生きているという青年の実像に触れたようで、とても好感を持った。
球界は今、シーズンオフ。イチロー選手のような話題に出合うと、うれしくなる。こんなとき、高村光太郎の詩『冬が来た』の一節を思い出す。<冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ>。セーターのような詩である。
車でなく、家でなく、貯金でもない。毛糸の編み物。背伸びをせず肩肘張らずに自然体で生きているという青年の実像に触れたようで、とても好感を持った。
球界は今、シーズンオフ。イチロー選手のような話題に出合うと、うれしくなる。こんなとき、高村光太郎の詩『冬が来た』の一節を思い出す。<冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ>。セーターのような詩である。
まさしく「冬が来た」今日この頃。皆様も風邪など召されませんよう、ご自愛下さい。
【折々のことば・光太郎】
本統に絵や彫刻を愛したり、味はうとする人がないと言ふのは、一面から考へれば人々に芸術を鑑賞する力がないからだとも言へるし、又一方から見れば、人々を引き付けるチヤームが芸術に無いからだとも言へる。其の何れにしても兎に角嬉しいことではない。
談話筆記「芸術を見る眼」より 明治44年(1911) 光太郎29歳
2年前の帰国当初、欧米で実際に触れてきた新しい芸術を日本にも伝えるため、啓蒙の意欲に燃えていた光太郎ですが、この頃になると、もはや日本全体を変えるのは不可能、という一種のあきらめにたどりつきます。
俗世間とは縁を切って、個の鍛冶、自らの芸術精進という方向性の企図です。この後、主に絵画の方面ではヒユウザン会、生活社などで同志と言える存在に恵まれますが、彫刻では、前年に荻原守衛が夭折し、孤軍奮闘となってゆきます。