昨日まで1泊2日で甲信地域を歩いておりました。例によってレポートいたします。
まずは一昨日。それがメインの目的でしたが、一昨夜開催された美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」のため、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。
たまたま同級生の結婚披露宴が甲府で行われるというので、娘を愛車に乗せ、正午頃、千葉県の自宅兼事務所を出発。甲府南ICで中央高速を下り、甲府駅近くで娘を下ろして、甲府昭和ICから再び中央高速、岡谷ジャンクションから長野道へ。長野道を下りた頃には日が暮れて参りました。北アルプスの山々はすでに冠雪。気温は2℃ほどでした。
美術館近くのビジネスホテルにチェックインし、館に到着。教会風の煉瓦建築・碌山館のたたずまいが幻想的でした。
すでに閉館時間は過ぎており、展示棟は無人です。窓の外から光太郎の作品群を拝見。
事務室で、ナビゲーター役の学芸員・武井敏氏と打ち合わせをし、いざ、会場へ。会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所のみの(平常時は休憩コーナー的な)使用法になったそうです。
「ストーブを囲んで」のタイトルにも謳われている、薪ストーブ。大活躍です。
午後6時、開会。
武井学芸員の作成したレジュメを元に、守衛、碌山、それぞれの生い立ちや彫刻家を志した動機、渡米の顛末、そして知り合ってからの交友などについて、二人で語りました。
当方も資料編的にレジュメを作成。
今回、新たに光太郎が日記や書簡を除く文筆作品(対談を含む)で、守衛に触れたものの一覧表を作ってみました。明治末、一足先に留学から帰国した守衛にあてた書簡形式で書かれたものに始まり、守衛が文展に作品を出品しそれを激賞したもの、明治43年(1910)の守衛の死に際しての追悼文的なもの、そしてその後も光太郎最晩年まで、生涯、折に触れて守衛の名を出し、その早すぎる死を悼んでいます。
それらの中から、そして、光太郎の親友だった作家・水野葉舟による二人の交友の描写も抜粋しておきました。
それから、守衛の死に際し、光太郎がやはり親友だったバーナード・リーチに送った英文の葉書。
Mr.Ogihara, a friend of mine, is dead suddnly. I am here by his tonb. You cannot imagine how I am sad ! Apile 26th
(私の友人の荻原氏が突然亡くなった。私は彼の墓のそばに来ている。君には私がどれほど悲しんでいるか想像できまい! 4月26日)
達筆だった光太郎が、殴り書きのような荒々しい筆跡です。それだけ悲しみの深さが解ります。
さらに、光太郎最晩年の昭和29年(1954)、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに建てられた守衛の「坑夫」のために書いた題字。50年近くが経っても、光太郎の守衛に対する親愛の情に変化がなかったことが伺われます。
当方が存じなかった話も武井学芸員から出てきて、勉強させていただきました。守衛の「坑夫」は、パリ滞在中の粘土原型を光太郎が見、ぜひ日本に持ち帰るようにと勧め、残ったということは存じていましたが、絶作の「女」も、モデルを務めた岡田みどりという人物の回想によれば、破壊されるはずだったところをやはり光太郎が残すように進言したそうです。
最近、一人での講演が多く、対談形式で行ったのは久しぶりでしたが、こちらの方が楽だな、という感じでした。武井学芸員がしゃべっている間に、次に何を言おうかと考えがまとめられますし、予定にはなかった方向転換も容易でした。武井学芸員のリードがみごとだったということもありますが。
対談の筆録は、来春刊行の同館館報に掲載される予定です。また改めてご紹介します。
終了後、事務棟の和室でストーブならぬ炬燵を囲んで、荻原家の方、館の皆さん、それから姉妹館的な東京新宿中村屋サロン美術館さんの方々10名あまりで打ち上げ。地元で取れた食材を使った料理に舌鼓。ありがたや。
宿に戻り、大浴場で疲れを癒し、就寝。
翌朝、宿から見えた北アルプスの山々です。
一路、甲州へ。山梨県内の光太郎ゆかりの地を3ヶ所廻りました。碌山美術館さんに行く際にはいつもそうしていますが、甲信地域の光太郎ゆかりの人物に関わる施設、光太郎が訪れた場所などに足を運ぶことにしています。今回は、夕方、結婚披露宴出席を終える娘を拾う都合がありますので、山梨県内を攻めました(攻めてどうする(笑))。
そのあたりはまた明日以降。
【折々のことば・光太郎】
人間は感覚の力に依るの外、生の強度な充実を得る道はない。感覚の存在が「自己」の存在である。感覚は自然の生んだものである。あらゆる人間の思索は此の感覚の上に立つてゐる。感覚は実在である。思索は実在の影である。
散文「静物画の新意義」より 明治44年(1911) 光太郎29歳
思索より、まずは自分の五感で得た感覚から入る造形作家の本質がよく表されています。これが書かれた前年に亡くなった守衛も、この部分を読んだら「そうそう」と首肯したのではないでしょうか。