まずは雑誌『中央公論』の今月号。光太郎の書が紹介されています。

イメージ 1  イメージ 2

イメージ 3

グラビアページの連載で、題して「川端康成の眼」。ご執筆は公益財団法人川端康成記念会理事の水原園博氏。川端が生前に集めた美術品コレクションを紹介する連載のようです。

で、今号は光太郎の扇面揮毫。「高村光太郎とほろびぬ美」という題名で、今年の1月に発見が報じられ、7月から8月にかけ、岩手県立美術館さんで開催された、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品されたものです。当方も8月に拝見して参りました。

詩集『智恵子抄』中の絶唱、「樹下の二人」の一節にして、有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」が書かれています。

岩手県立美術館さんでの企画展会期中、水原氏が花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)、そして隣接する高村光太郎記念館さんを訪れられたというお話は、同館の方から伺っていましたが、その際の感想なども綴られていました。

現在、書店に並んでいます。定価は税込み930円。ぜひお買い求め下さい。


もう一点。花巻市さんの広報紙『広報はなまき』の11月15日号です。こちらも連載で「花巻歴史探訪(郷土ゆかりの文化財編)」というコーナーがあるのですが、光太郎の彫刻「大倉喜八郎の首」が紹介されています。

イメージ 4
制作年代は大正15年(1926)。モデルの大倉喜八郎は、戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した人物です。大倉は自身と妻の肖像彫刻を、光太郎の父・光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

イメージ 5

その光雲作の木彫のための原型だったわけです。光太郎は粘土原型をストーブで焼いてテラコッタにし、それから光太郎歿後にブロンズに鋳造されました(『広報はなまき』さんでは石膏原型となっていますが、誤りです)。

イメージ 6

テラコッタは、いったん光太郎の手を離れたのですが、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳が持っていたことがわかり(どういう経緯か不明ですが)、光太郎の手に戻りました。

イメージ 7

ブロンズに鋳造されたものは数多く存在し、花巻高村光太郎記念館さんにも所蔵されています。『広報はなまき』さんの記事は、そちらの写真です。


というわけで、今日は光太郎の書と彫刻を取り上げて下さった刊行物をご紹介しましたが、文筆作品系も出ています。来週ご紹介します。


今日から一泊二日で信州です。安曇野の碌山美術館さんにて、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」のパネリストを務めて参ります。愛車には、甲府で行われる高校の同級生の結婚披露宴に参加する娘を乗せて行き、珍道中になりそうです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

日本人の視官感覚の中で一番優れてゐるのは線の受感性でせう。線を流暢に用ゐる事は日本人の僅かに誇りとする事の出来る能力であると思ひます。島田の髷をみても解ります。浮世絵を見ても解ります。日本人の肉筆の文字を見ても解ります。若い女の人が車の上で御辞儀をするのを見ても解ります。玄関の台石の上に並べられた下駄の位置を見ても解ります。

散文「工房雑感」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

上記扇面の光太郎筆跡を見ても、「線を流暢に用ゐ」ているな、と思わせられます。

玄関の台石の上に並べられた下駄の位置」は笑いました。うちの娘は、靴は脱いだら脱ぎっぱなし(笑)。これでは当分、嫁に行かせられません(笑)。