昨日の『朝日新聞』さん埼玉版に載った記事です。
埼玉)彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ
文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと交遊した世界的な彫刻家高田博厚(ひろあつ、1900~87)が神奈川県鎌倉市に残したアトリエが閉鎖されることになり、ゆかりの東松山市に遺品が寄贈されることになった。12月2日に鎌倉で遺族や知人ら関係者によるお別れの会があり、市への寄贈が改めて表明される。 高田博厚は石川県生まれで福井県育ち。旧制中学時代から文学や哲学、美術に傾倒し、上京して彫刻家高村光太郎らと出会い彫刻を始めた。31年に渡仏。ロマン・ロランやジャン・コクトー、画家ルオー、哲学者アランらと交遊しながら西欧彫刻界で評価を得た。
57年に帰国し、鎌倉市稲村ガ崎にアトリエを構えた。真摯(しんし)な写実と知的で詩情ある作風で、代表作にはロマン・ロラン、ルオー、川端康成らの肖像がある。86歳で死去。鎌倉のアトリエには、高田の彫刻作品や絵画、デッサン、ロマン・ロラン、アランの献辞入り書籍などを含む数百冊、彫刻台やヘラ、イーゼルなどの道具もある。没後30年を機に、遺族がアトリエの閉鎖を決めた。
東松山市との縁は、今年2月に94歳で亡くなった元市教育長で詩人の田口弘さんが、高田と親交のあった国文学者で俳人の柳田知常に師事し、高田と出会ったという。以来、田口さんは東松山市で高田博厚彫刻展を開くなど親交を深めた。市は86~94年には高田の彫刻作品32体を購入し、高坂駅前約1キロの通りに設置。「高坂彫刻プロムナード」として観光資源化を図っている。
高田の義理の娘、大野慶子さん(80)は「父が亡くなって30年。東松山市の方々の熱意に父も生前に感銘していた。アトリエの遺品すべてを東松山市に寄贈できることをきっと喜んでくれています」と話した。
お別れ会は鎌倉のアトリエで、慶子さんら遺族のほか、東京芸大名誉教授で文化勲章受章者の洋画家野見山暁治さん、女子美術大名誉教授で洋画家の入江観さん、小樽商大名誉教授の高橋純さんら関係者だけで行われる予定だ。(大脇和明)


記事にあるとおり、今年2月になくなった、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏のご遺徳で、こうなりました。
氏は戦時中に光太郎と知り合い、出征前には光太郎の元を訪れて書の揮毫をもらったりもしたそうです。南方で九死に一生を得て復員後、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を2度訪問、その後も中央公論社版『高村光太郎選集』編集に協力するなどなさいました。
昨年には、光太郎から贈られた品々などを同市に寄贈。今年、天に召されましたが、実にお見事な「終活」でした。
また、光太郎と深い交流のあった高田博厚とも親しく交わられ、東武東上線高坂駅前に、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「高坂彫刻プロムナード」の整備に奔走されました。また、今年の6月から7月にかけては、高坂で「高田博厚歿後30年展」が開催されました。そうした縁から、今回の寄贈ということになったのでしょう。
続報が出ましたら、またご紹介します。
ちなみに、来年、氏の一周忌に合わせ、田口氏から同市に寄贈された光太郎関連資料が、市立図書館さんに常設展示されることになりました。蛇足ながら、そのオープン記念ということで、「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」という題で、当方が講演をすることになりました。このあたりも詳細が出ましたらまたご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
ところが、面白いのは如何なるものにも其のもの特殊な興味を発見しないでは止まない人間の芸術慾であります。
散文「版画の話」より 明治44年(1911) 光太郎29歳
その発明当初、印刷という実用に供するものに過ぎなかった版画が、芸術として発展していったことに対する言です。この場合、「興味」=「美」。
泉下の高田博厚、田口弘氏など「芸術慾」に憑かれた人々も、「そうそう」と首肯しているような気がします。