11/26(日)、都内を歩き回っておりましたレポートの最終回です。
今回、時系列に逆らって書いておりまして、この日、最初に訪れたのが新宿三丁目駅近くの映画館、新宿ピカデリーさんでした。こちらでは、フランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」が公開中です。朝8時20分からの回を拝見しました。
朝っぱらから見るには重たい内容でしたが(笑)、実に感動いたしました。下記は公式サイトから。
1880年パリ。彫刻家オーギュスト・ロダンは40歳にしてようやく国から注文を受ける。そのとき制作したのが、後に《接吻》や《考える人》と並び彼の代表作となる《地獄の門》である。その頃、内妻ローズと暮らしていたオーギュストは、弟子入りを願う若いカミーユ・クローデルと出会う。
才能溢れるカミーユに魅せられた彼は、すぐに彼女を自分の助手とし、そして愛人とした。その後10年に渡って、二人は情熱的に愛し合い、お互いを尊敬しつつも複雑な関係が続く。二人の関係が破局を迎えると、ロダンは創作活動にのめり込んでいく。感覚的欲望を呼び起こす彼の作品には賛否両論が巻き起こり…。
才能溢れるカミーユに魅せられた彼は、すぐに彼女を自分の助手とし、そして愛人とした。その後10年に渡って、二人は情熱的に愛し合い、お互いを尊敬しつつも複雑な関係が続く。二人の関係が破局を迎えると、ロダンは創作活動にのめり込んでいく。感覚的欲望を呼び起こす彼の作品には賛否両論が巻き起こり…。
ロダン役のヴァンサン・ランドン、カミーユを演じたイジア・イジュラン、風貌もそっくりでした。人物像としては万人の持つ二人のイメージを、さらに誇張して描いていたように思われます。作品制作のためには自分自身の内的衝動に正直に随い、結果、いろいろなことを犠牲にしてはばからないという点では似たもの同士。世の中の常識や、倫理観といったものも、二人の前では意味を失うといった描写が繰り返されました。
その結果、平坦な道のりではないにせよ、巨匠としてのしあがっていくロダン。一方のカミーユは、「ロダンの弟子」というフィルターを通してしか評価されず、愛人という曖昧な立場にも苦しみます……。
また、カミーユと知り合う前からロダンを支えていた内妻(最晩年に入籍)のローズ・ブーレ。かなり嫉妬深い女として描かれていました。ここは当方の持っていたイメージとは少し異なりました。
ちなみに光太郎は滞仏中、ロダン本人は展覧会の会場で見かけたくらいで、直接会話はしていません。ただ、親友の荻原守衛が、書簡の中で自分の親友としてロダンに紹介してはいます。さらに2回ほど、ロダンのアトリエを訪れましたが、ともにロダンは不在。代わりに応対したローズに、ロダンの厖大なデッサンを見せられ、圧倒されたとのことです。
閑話休題。結果、カミーユは精神崩壊を来たし、実に30年の入院(かなり劣悪な環境だったそうです)を経て、恢復することなく、1943年に歿しました。その悲惨なカミーユの姿は、映画では描かれませんでした。象徴的に使われていたのが、カミーユの彫刻「分別盛り」の一部、「嘆願する女」。物語の終盤、ロダンが画廊でこれを見るシーンで、二人の関係の修復不可能な破綻、その後のカミーユの運命が暗示されました。心憎い演出でした。
光太郎は終生ロダンを敬愛してやみませんでしたが、実は、どちらかというとその傾倒は若い頃。壮年期以降は、かえってロダン以前のミケランジェロに言及することが多くなっていった感があります。下司(げす)の勘ぐりかも知れませんが、智恵子の悲劇がカミーユのそれとリンクする感覚があったのかもしれません。
しかし、光太郎とロダンの決定的な違いは、ロダンはカミーユ以外にも片っ端から若いモデル女性と関係を持ち、自分の肥やしとしていたところ。このあたりのエロティックな描写も、朝っぱらから見るには適当ではなかったように思いました(笑)。眼福ではありましたが(笑)。すると、ロダンが人でなし、極悪人、獣のような設定かというとそうではなく(フェミニズム論者には許せないかも知れませんが)、芸術の創造のためには必要だったという描き方でした。
その他、映画では、それぞれちょい役的な扱いでしたが、光太郎が訳した『ロダンの言葉』の原典の一部を書いたオクターヴ・ミルボー、カミーユと同じくロダンの弟子で、動物彫刻で名を馳せたフランソワ・ポンポン(光太郎の評論にも名が出ています)、それとは知らず光太郎と同じ建物に住んでいた、ロダンの秘書的なこともやった詩人のリルケ、さらにはモネやセザンヌ(智恵子が最も敬愛していました)なども登場し、当方、そのたび「おお」と言っていました(笑)。
そして光太郎が書き下ろした評伝『ロダン』(昭和2年=1927)の中で特に一章を割き、実際に岐阜まで会いに行ってロダンのモデルを務めた話を聞いた日本人女優・花子も、最後に登場しました。また、日本関連では、物語のラストシーンが、箱根彫刻の森美術館でのロケ。ロダン晩年の大作にして、物語の後半で大きくクローズアップされた「バルザック記念像」が展示されているためです。日本人の子供たちが「バルザック記念像」を使って「だるまさんがころんだ」で遊んでいました。100年経った遠い極東の島国でも、ロダン作品が愛されているという意図でしょうか。または、日本公開を前提とし、日本企業からのスポンサー料を見こしての大人の事情でしょうか(笑)。
「バルザック記念像」以外にも、「地獄の門」、「考える人」、「接吻」、「影」、「青銅時代」、「カレーの市民」などのロダン作品、それからカミーユの「ワルツ」なども、人間に劣らず存在感を示す「登場人物」的に続々登場。その意味でも大満足でした。
美術史に詳しくない方でも、人間ドラマとして鑑賞できるすばらしい作品です。公開館が少ないのが残念ですが、ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
しかし、君の様に全(まる)で違つた職業にゐながら美術の解つた人等が殖えて来なくては可けないのさ。小説の読者が小説家に限り、詩歌の読者が詩歌の作者に限り、絵画の真の鑑賞者がパレツトを持つた人に限つてゐるやうでは実に心細い次第なんだ。料理を味はふのが料理番ばかりぢや困るからね。
散文「銀行家と画家との問答」より 明治43年(1910) 光太郎28歳
およそ100年前のこの警句から、この国の事態は好転したのかどうか……。たしかに人気の展覧会には長蛇の列が出来たりはしますが、相変わらず「腹の足しにもならん」という考え方も根強いように思われます。