一昨日、都内に出ておりましたレポートの2回目です。
メインの目的は、日比谷で開催された「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」の拝聴でしたが、その前に日本橋に行っておりました。三井記念美術館さんで9月から開催中の特別展「驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—」拝見のためです。光太郎の父・高村光雲の木彫も出ているということで、観に行って参りました。
同館では、平成26年(2014)に「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」という企画展を開催、その後、同展は日本中を巡回し、これが最近はやりの「超絶技巧」という語のはしりとなり、かつてはゲテモノ扱いだった明治期の種々の工芸に光が当てられるようになりました。それ以前から明治工芸の収集に力を入れていた、京都の清水三年坂美術館さんの協力が大きかったと思われます。
その後、同様の企画展が各地で開催されています。広い意味では、一昨日まで東京藝術大学さんで開催されていた「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」なども、共通するコンセプトも持っていたといえましょう。
今回も超絶技巧系の作品を集めた企画展ですが、それだけでは前回の二番煎じということで、その系譜を受け継ぐ現代作家の作品も併せて展示されています。今後はこういった工夫も必要になるでしょう。
光雲をはじめとする、木彫の潮流も広い意味では超絶技巧の明治工芸ということで、今回も光雲作品が展示されています。制作時期が不明なのですが、「布袋」像。
こちらは個人蔵ということで、展覧会への出品はおそらく初か、あったとしても少なかったものだと思われます。当方は初めて拝見しました。写真でも見た記憶がありません。椅子に座っているという、いっぷう変わったポージングです。
図録の解説文がこちら。
『光雲懐古談』を引用していますが、やはり「青空文庫」さんで当該の章が読めるようになっていますので、リンクを張っておきます。輸出用の牙彫(象牙彫刻)が大流行した明治10年代半ば頃(光太郎が生まれた頃)の話です。逆に木彫は衰退の一途でした。沢田という商人は、その後、象牙の方が高く売れると云うことで、光雲に牙彫への転身をしきりに勧めましたが、光雲は頑として受け入れませんでした。光雲はその後、明治20年(1887)、皇居造営に伴う彫刻の仕事を命ぜられ、それがきっかけで飛躍していき、一方の牙彫は衰微していきます。
その沢田に注文されて布袋像を作ったことが紹介されていますが、やはり解説文の通り、これがそれとは限りません。
その他、木彫では東京美術学校で光雲と同僚だった石川光明、光雲が激賞したという根付師・森田藻己(小さな根付ではなく、大きな丸彫り)、現代では光雲の系譜に連なる加藤巍山氏の作品なども展示されていて、興味深く拝見しました。
木彫以外でも、牙彫、七宝、金工、漆芸、刺繍絵画、陶磁器などの逸品がずらり。安藤緑山の牙彫、並河靖之で七宝、正阿弥勝義による金工など、平成26年(2016)の同館、さらに清水三年坂美術館さんでも拝見した作品を再び目にでき、旧知の友人に再会したような感覚になりました。また、NHKさんの「日曜美術館」、テレビ東京さんの「美の巨人たち」などで取り上げられた作も多く、それらを思い出しながら拝見しました。
現代作家さんたちの作品にも感心しました。技法の継承という点で重要ですし、単なる守旧に留まらず、さらに先に進もうとする意慾が感じられました。しかし残念なのは、明治期の一部の技法はもはや現代では再現不能といわれていること。今後、それらが再現される技術の確立を求めてやみません。
同展、12月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
一体、作品の鑑賞の興味、といつて悪ければ愉快さは、作品そのものを通して作者と膝を割つて話の出来る処にあるのである。作者の見た自然の核心なり人事の情調なりの一寸二寸と解つて来る行程が堪らなく愉快なのである。どうしても作品の背後に作家の顔を見る所まで行かなければ、真の懐しみ、真の親しみは出て来ないのである。
散文「美術展覧会見物に就ての注意」より 明治43年(1910) 光太郎28歳
これは極論ですが、やはりその作家の歩んできた道程を知っていると知らないとでは、作品の見え方は異なります。知っていることが必須ではありませんが、なるべく知ることを心がけたいと思います。