東京目黒から市民講座の情報です。
第2回らかん仏教文化講座 「近代彫刻としての仏像」
期 日 : 2017年12月9日(土)会 場 : 天恩山五百羅漢寺 講堂 東京都目黒区下目黒3丁目20−11
時 間 : 18:00~19:30
料 金 : 聴講料 500円 拝観料 大人300円 学生(高校生以上) 300円
講 師 : 藤井明先生(小平市平櫛田中彫刻美術館 学芸員)
江戸から東京へ
らかん仏教文化講座は、東京都目黒区の天恩山五百羅漢寺を会場に開催される連続講座です。かつて本所五ツ目にあった羅漢寺は、元禄時代に仏師の松雲元慶が独力で彫り上げた五百羅漢や、栄螺(さざえ)堂で知られる江戸の名所でした。元慶によって制作された仏像群は、日本の近代彫刻を開拓した高村光雲にも大きな影響を与えました。このように近世から近代への移り変わりをみる上でも、羅漢寺は重要な場所となります。目黒へ移転した現在も300体以上の彫像が残されています。
仏教文化について学ぶ連続講座
私たちのまわりには、数多くの仏教文化が存在しています。そうした私たちの生活に身近な仏教文化の多くは、実は近代以降につくられた、もしくは知られるようになった比較的新しいものです。そのため、前近代の経典や教義に関する研究や、仏教(美術)史の研究では扱われてきませんでした。しかし、現代社会と仏教のかかわりを知る上では、近代における仏教文化の変容について学ぶことができ、きわめて重要となります。
本講座は、仏教に関心のある方であれば、どなたでも聴講できる連続公開講座です。さまざまな領域で近代以降の仏教文化の研究を行っている専門家や研究者を招き、最新の研究状況を広く、わかりやすく紹介します。
講師が小平市立平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏。昨年の連翹忌にご参加下さっていますし、今年の春に同館で開催された特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」の際には、関連行事としての美術講座「ロダンと近代日本彫刻」で、光太郎に触れて下さっています。
おそらく平櫛田中や、田中の師の光雲、さらに田中以外の光雲門下の彫刻家などにも触れられるのではないかと期待しております。
先月行われた第1回の講座「五百羅漢寺と江戸東京の仏教文化」(講師:同寺執事/学芸員・堀研心氏)でも、光雲に触れて下さったそうで、聞き逃したのを残念に思っております。下記は『仏教タイムス』さんの記事。
「明治期の大彫刻家・高村光雲が修業時代、寺に通って羅漢像から彫刻を学んでいたエピソード」とあります。
これは、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に述べられています。同書は700ページ超の大著で、前半が光太郎の親友だった作家の田村松魚の筆録になるという(一部は異なるようですが)「昔ばなし」、後半が折々の機会に光雲が語った講話等の集成である「想華篇」にわかれています。
このうち前半の「昔ばなし」は、『木彫七十年』(中央公論美術出版、昭和42年=1967)、『高村光雲懐古談』(新人物往来社、昭和45年=1970)、さらに『幕末維新懐古談』(岩波文庫、平成7年=1995)などの形で覆刻されていますし、インターネット上の「青空文庫」さんにも収められています。
もともと五百羅漢寺さんは本所五ツ目(現在の江東区大島)にありましたが、本所緑町を経て、明治41年(1908)に現在の目黒に移転しています。明治初年までは境内に栄螺堂という堂宇があり、江戸や上方の名だたる仏師の手による観音像が約100体寄進されていて、光雲ら江戸の仏師はそれを手本にしていたとのこと。
ちなみに栄螺堂、「五百らかん寺さざゐどう」として、葛飾北斎の「富岳三十六景」のラインナップに入っています。堂上からの眺望が非常に良かったためです。
しかし、廃仏毀釈のあおりで、栄螺堂は取り壊され、内部にあった観音像は下金屋という、金属の再生加工業者によって燃やされてしまいました。貼り付けてあった金箔を取るためです。その暴挙の行われる寸前に、徒弟時代の光雲と、師匠の高村東雲が駆けつけ、何とか出来のいい五体だけを救い出したそうです。その内の一体は光雲がもらい受け、終生、自身の守り本尊として崇めたとのこと。右の画像がそれですが、なるほど、後の光雲作のもろもろの観音像に通じるお顔立ちです。
作者は松雲元慶。江戸中期の僧侶にして仏師です。「雲」の字が入っていますが、光雲と直接のつながりはありません。
その松雲元慶、諸国行脚中に豊前耶馬溪の五百羅漢に出会い、自らも五百羅漢の造立を発願、さまざまな人々の助けを得、さらに松雲元慶歿後も遺志を継いだ人々によって、江戸の本所に五百羅漢寺が造営されたわけです。「暴れん坊将軍」徳川吉宗も一枚かんでいるそうです。
そのあたり、昭和4年(1929)刊行のオリジナル『光雲懐古談』の「想華篇」に詳しく述べられています。さらにモノクロですが、当時の五百羅漢の写真も掲載されています。
残念ながら『光雲懐古談』、前半の「昔ばなし」は繰り返し覆刻されていますが、後半の「想華篇」はオリジナルの昭和4年版にしか載っていません。また、豊富に載っている写真も復刻版ではかなり割愛されています。
光雲の師・高村東雲のさらに師・高橋鳳雲が、この五百羅漢に啓発されて自らも五百羅漢像を造った話も「想華篇」に語られています。木彫原型は身延山久遠寺に納められましたが火災で焼失、鋳金にしたものは、鎌倉の建長寺さんの山門楼上に健在だそうで、機会を見て拝観したいものだと思っております。
ぜひとも「想華篇」の部分も、覆刻されてほしいものです。
話があちこち飛びましたが、「第2回らかん仏教文化講座 「近代彫刻としての仏像」」、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEIT に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。
散文「緑色の太陽」より 明治43年(1910) 光太郎28歳
日本に於ける初の印象派宣言とも言われ、あまりにも有名な評論です。これを読んだ智恵子が、ぜひとも光太郎に会いたいと思ったという話も伝わっています。
「PERSOENLICHKEIT」は独語で「人格」の意です。