一昨日、上野の東京藝術大学美術館さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見したあと、谷中を抜けて千駄木へと歩きました。
谷中は明治23年(1890)~同25年(1892)、光太郎一家が一時居住していました。父・光雲は同22年(1889)から東京美術学校に奉職、谷中に移ってから教授に昇格するとともに、帝室技芸員も拝命し、皇居前広場の楠木正成像の制作主任にもなりました。代表作の「老猿」も谷中で制作しました。
ところが光太郎が尊敬し、強く感化を受けていた6歳年上の姉・咲(さく)が16歳の若さで肺炎で亡くなり、失意の光雲は谷中の家に居たたまれず、千駄木への転居を決めました。
さて、不忍通りを渡って団子坂を上り、森鷗外の観潮楼跡を過ぎて、路地を右に入ります。少し歩くと、現在も続く髙村家。家督相続を放棄した光太郎に代わり、後に鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が跡を継ぎました。豊周令孫の朋美さんが庭掃除をなさっていました(笑)。
その手前が目的地・旧安田楠雄邸なのですが、安田邸は髙村家とは逆サイドに正面玄関があり、さらに路地をくねくねと進み、旧保健所通りに出て、少し戻ります。
豊島園の創設者・藤田好三郎によって大正8年(1919)に建てられた邸宅を、安田財閥の安田善四郎が買い取り、その子、楠雄が住み続けました。
こちらでは、水曜、土曜のみ「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。故・髙村規氏は豊周の子息、つまりは光太郎の令甥。写真家として活躍された方でした。
入り口で入場料700円也を納め、靴を脱いで上がります。ボランティアガイドの方が邸内や庭園の説明をして下さいました。
こちらは平成8年(1996)に安田家から公益財団法人日本ナショナルトラストさんに寄贈されています。その後、邸内でさまざまな催しや展示に利用されており、その一環として「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。
在りし日の規氏。
平成21年(2009)に開催された「第一弾」の折のものも。
愛用のカメラや日用品。
2階にあがると、昔の千駄木の写真が。題して「規さんが生まれ育った千駄木林町」。このあたり、旧地名は本郷区駒込林町でした。レトロな建物や自動車、行き交う人々など、実に自然でいい感じでした。
光雲、光太郎、そして智恵子の作品の写真は、邸内のあちこちに。
21世紀の都心に居ることを忘れさせられるようなひとときでした。
今月29日までの水曜、土曜に公開されています。ぜひ足をお運びください。
続いて、安田邸を出て左、光太郎アトリエ跡地を通り過ぎ、動坂方面へ。
動坂上交差点を右折、田端駅を目指しました。田端といえば文士村。芥川龍之介や萩原朔太郎、そして室生犀星等が住んでいました。犀星は、このルートを辿って光太郎アトリエを何度か訪れたはずです。大正初期、最初に訪れた頃は何度も智恵子に追い返されたそうですが(笑)。
田端駅から山手線で池袋へ。豊島区役所さんで開催中だった(昨日で終了)「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」会場へと足を向けました。そちらは明日、レポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
おれは十年ぶりで粘土をいじる。 生きた女体を眼の前にして まばゆくてしようがない。 こいつに照応する造型の まばゆい機構をこねくるのが もつたいないおれの役目だ。
詩「お正月に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳
翌年の『朝日新聞』元日号のために書かれた詩です。
「生きた女体」は、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため雇ったモデル・藤井照子。当時19歳でした。
プールヴーモデル紹介所に所属していたプロの美術モデルで、木内克の彫刻のモデルも務めていたとのこと。「乙女の像」の仕事のあと、結婚してモデルはやめたようで、結婚の報告のため光太郎を訪れたりもしていました。
以前にも書きましたが、まだご存命なら80代前半のはずで、消息をご存じの方はご教示いただければと存じます。
先日、十和田市に行った際、現地の方から、「東京の青果店に嫁いだらしい」という情報を聴いたのですが、詳細が不明です。