昨日は都内に出て、4件の用事を済ませて参りました。3回に分けてレポートいたします。

今日はまず1件目、光太郎の母校にして、父・光雲、実弟・豊周が教鞭を執った東京藝術大学さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見した件。

大正から昭和最初期の頃に、皇室の方々の御成婚や御即位などの御祝いのために、当代選りすぐりの美術工芸家たちがそれぞれ腕を振るって制作した献上品などを集めた企画展で、それらはまとめて皇居の外で展示されたことがないというものです。

それらの制作や献上に際しては、東京美術学校第5代校長・正木直彦が音頭を取ったり仲介したりといったことが多く、同校教授だった光雲の作品も少なからず含まれていました。

このブログで以前にご紹介した際には、たしか出品リストが公式サイトにアップされていなかったため、光雲作品はチラシに載っている「松樹鷹置物」(大正13年=1924)以外に何が出ているか分かりませんでしたが、その後、アップされた出品リストにより、他にも光雲作品が展示されていることを知って、これはぜひとも観に行かねばと思い、行って参りました。

ちなみに光太郎も東京美術学校出身ですが、光雲の勧めを断って教職には就きませんでした。そのため、光太郎の作品は含まれていません。

光雲単独の作品は以下の通りでした。写真は故・髙村規氏によるものです。


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「鹿置物」(大正9年=1920)、「猿置物」(大正12年=1923)。


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「木彫置物 養蚕天女」(昭和3年=1928)、「松樹鷹」(大正13年=1924)。

これらは平成14年(2002)に千葉市美術館さん他で開催された「高村光雲とその時代展」や、皇居内の三の丸尚蔵館さんで開催される企画展などで観たことがあるものでしたが、やはり何度観てもいいものです。鹿の角の質感、松の木肌のリアルさ、猿や天女の衣の本物と見まごう表現など、光雲ならではの超絶技巧です。

ちなみに「松樹鷹」と「猿置物」はポストカードにもなっていました。1枚150円です。

これら以外に、光雲と他の作家の合作もあり、それらは初めて観ました。

「萬歳楽置物」(大正4年=1915)、ブロンズです。原型は木彫で、光雲と、その高弟の山崎朝雲の作。台座の部分の制作者は由木尾雪雄という蒔絵師です。螺鈿があしらわれ、実に豪勢な作りでした。鋳造も見事です。

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それから栄えある出品ナンバー1番「綵観(さいかん)」(明治37年=1904)。八曲一双の屏風なのですが、木で出来ています。その両面に、絵画、木彫、鋳金、七宝、牙彫(象牙)、蒔絵、陶芸などで、光雲はじめ、総勢18名の錚々たるメンバーの作品がはめ込まれています。橋本雅邦、川端玉章、石川光明、海野勝珉、竹内久遠(久一)、大島如雲、はては最近とみに注目を集めている宮川香山や濤川惣助まで名を連ねています。

光雲の作は、狆(ちん)をあしらった木彫レリーフ「いし」(「し」は「子供」の「子」ですが、「い」はけものへんに「委」、第2水準でも存在しない字でした)。

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わかりにくいのですが、中央がそれです。左は川端玉章、右は橋本雅邦です。

さらに、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝、高村豊周の作もありました。豊周は家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を継ぎ、東京美術学校鋳金科の教授を務めました。これも合作で、「二曲御屛風 腰彫菊花文様」(昭和3年=1928)。「石楠花(しゃくなげ)」が豊周の鋳金レリーフです。

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この屏風、今日オンエアされるNHKさんの「日曜美術館 皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」の番組案内で「48人の工芸家が技法を競った作品が装飾されたびょうぶ。金工、木工、漆、陶芸など日本の伝統工芸がここに集約されている。」と紹介されています。豊周の名が出るかどうか微妙ですが。

その他の作家の作品も、逸品ぞろい。やはり皇室に納められた作品ということで、作者の気合いの入り方が異なるのでしょう。錚々たるメンバーの合作系は、皇室に、ということでもなければ実現しなかっただろうと思われる部分もあります。

今月26日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あなたのきらひな東京が わたくしもきらひになりました。 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう。 あの清潔なモラルの天地で も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。
詩「報告」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

言わずもがなですが、「あなた」は、かつて「東京に空が無い」(「あどけない話」昭和3年=1928)と言った智恵子です。智恵子を直接のモチーフとした詩は、これが絶作となりました。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、「清潔なモラルの天地」、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京して最初の詩です。

7年間、厳しくも美しい自然に囲繞された生活の中で濾過された光太郎の眼には、生まれ故郷とは言う定、7年ぶりに見た東京の街は、「きらひにな」らざるをえない街だったというのです。

ただ、実際には草野心平らと夜な夜な飲み歩いたり、映画やコンサート、各種の展覧会や果てはストリップまで見て歩き、けっこう「東京」を楽しんでいたようにも思えますが……。それは光太郎一流の「韜晦」だったのかもしれません。