光太郎が終生敬愛し続けた、オーギュスト・ロダンの企画展です。
《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』
期 日 : 2017年10月21日(土)~2018年1月28日(日)会 場 : 国立西洋美術館 版画素描展示室 東京都台東区上野公園7番7号
時 間 : 午前9時30分~午後5時30分 毎週金・土曜日:午前9時30分~午後8時
ただし11月18日は午後5時30分まで
料 金 : 一般500円(400円)、大学生250円(200円) ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(ただし、2018年1月8日(月)は開館)、
2017年12月28日(木)~2018年1月1日(日)、1月9日(火)
2017年12月28日(木)~2018年1月1日(日)、1月9日(火)
1880年、建築予定のパリの装飾芸術美術館の門扉となるべき大型彫刻の注文を受けたオーギュスト・ロダン(1840-1917)は、ダンテの『神曲』「地獄篇」を題材として、《地獄の門》の制作に取り組み始め、まずは大量のデッサンを手がけます。「私は1年の間、ダンテとともに生きた。彼によってのみ生き、彼のみと生きたのだ。そして彼の“地獄”の8つの圏谷(たに)をデッサンした」(ロダン)。生前に犯したさまざまな罪のために地獄で責苦に喘ぐ死者や、空中を跳梁する悪魔。ウェルギリウスとダンテの導きで地獄巡りに出たロダンの想像力は紙の上に荒々しい幻想の世界を生み出しました。やがてロダンは、これらのデッサンをあまりに現実から離れたものとして放棄し、新たに「自然にもとづいて」デッサンをやり直したといいます。しかしここには、デッサン家としてのロダンが紙の上で繰り広げたより自由なヴィジョンがあるとともに、生の苦悩と創造の輝きが混然となって展開する壮大な《地獄の門》創造の萌芽を見ることができます。
支援者の美術愛好家モーリス・フナイユの名を取って『アルバム・フナイユ』として知られる大型素描集『オーギュスト・ロダンのデッサン』は、ロダン自身が選び出してタイトルを付けた「地獄篇」をめぐる142点のデッサンを精巧なフォトグラヴュール技法によって同寸で複製したものです。「地獄篇」、「辺獄(リンボ)、「習作」の3部で構成され、詩人オクターヴ・ミルボーの序文を加えて、1897年にグーピル商会の後継会社ブソ&マンツィ&ジョワイヤン社から125部限定で出版されました。ロダン自身が制作プロセスに深く加わったこの素描集は高い評価を受け、後の「画家本(リーヴル・ダルティスト)」の先駆ともいわれます。ロダンが没してから100年にあたる2017年秋の小企画展示では、《地獄の門》の主要な関連彫刻作品とともに、この『アルバム・フナイユ』の全図版をご紹介します。
同館前庭に立つ、ロダン畢生の大作「地獄の門」。その制作過程をうかがい知ることのできる素描が展示されます。
関連する記事が、先月末、『朝日新聞』さんに出ました。ご執筆は日本大学芸術学部・髙橋幸次教授。このブログにたびたびご登場いただいております。
長いので全文は引用しませんが、冒頭部分で光太郎にも触れて下さっています。
「近代彫刻の父」とも呼ばれるオーギュスト・ロダン(1840~1917)が、今年11月に没後100年を迎えます。ロダンの魅力は、彫刻という不動のものに「動き」や「生命感」を持たせたこと。彫刻家の荻原守衛や高村光太郎らにも大きな影響を与え、明治末から戦後にかけて、日本でも「ロダニズム」が席巻しました。
光太郎畢生の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、「地獄の門」に影響を受けています。光太郎は2体全く同じ像を向かい合わせにしていますが、ロダンは「地獄の門」のてっぺんに、3体の同型の像を並べました。後に「影」としてシングルカットされています。
光太郎は「乙女の像」完成後の談話で、「影」に触れ、インスパイアであったことを示唆しています。
さて、国立西洋美術館さん、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
若しも智恵子がここに居たら、 奥州南部の山の中の一軒家が たちまち真空管の機構となつて 無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。
詩「若しも智恵子が」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳
花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活。戦争協力を恥じ、自らを罰するために選んだ自虐に等しい過酷な生活でしたが、その中で最も求めたもの、それは亡き智恵子との再会でした。