昨日は日帰りで、智恵子の故郷・福島二本松に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

午前10時から、智恵子生家に近い旧安達町のラポートあだちださんで、智恵子を偲ぶ「第23回レモン忌」が開催されました。地元で智恵子の顕彰活動を進められている、智恵子の里レモン会さんの主催です。智恵子の忌日は10月5日(レモンの日)ですが、レモン忌の集いとしては、それに近い日曜日ということで期日が設定されています。昨日は地元の方を中心に、40名ほどの皆さんがご参加、智恵子を偲ぶひとときを過ごしました。

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開会の言葉に続き、智恵子肖像に献花/献果。献果はレモンです。

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主催者挨拶、来賓祝辞、来賓紹介、祝電披露、記念撮影で第一部が終了。

第二部は、記念講演でした。福島県立美術館さんの学芸員をなさっている堀宜雄氏で、題して「智恵子の横貌―『青鞜』表紙絵のナゾ―」。

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主に明治大正期、光太郎と共同生活を始めるまでの、画家としての智恵子の軌跡を丹念に追われていました。

メインは明治44年(1911)に、日本女子大学校で智恵子の先輩だった平塚らいてうが立ち上げた雑誌『青鞜』の表紙絵について。智恵子は創刊号を含め5回使われた有名なデザインのものと、従来スズランを描いたとされてきた翌45年(1912)の第2巻第1号~3号の表紙を飾ったものと、2種類の表紙絵を手がけています。

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上の画像は氏のレジュメから。もうこれでネタバレになっていますので、左の従来スズランだといわれてきたものからご説明しますと、これはスズランではなく、アマドコロという植物だろうとのこと。似ているものの、スズランはこのような形にならない、ということで、画像を使ってご説明下さいました。

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まったくその通りですね。当方にしても、これはスズランだと信じて疑いもしませんでした。

それから、創刊号の有名なデザイ000ン(右は昨年末に入手した、智恵子の文章が載った号で、創刊号ではありませんが、同じ意匠です)。つい先月、連翹忌ご常連の、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏が明らかにされた新事実が、早速紹介されました。

従来、この絵は何を描いたものか、ということで、いろいろな解釈が為されていました。アール・ヌーボー風だとか、ギリシャの女神とか、エジプトのそれだとか、背景の丸や三角についても、実に色々な説が唱えられていました(具体例は挙げませんが、中には噴飯ものの珍説も)。

それから、元になったアイディアなり、デザインソースなりについても、アルフォンス・ミュシャやクリムト、青木繁などとの関連があるのでは、等々、これも百家争鳴でした。

それらに終止符を打つ発見を水沢氏がなさり、氏のフェイスブック上に、先月、発表されました。当方、フェイスブックには登録しておらず、ここにリンクが貼れませんが、その記事を紹介する他の方のブログを見つけ、水沢氏に資料を送って下さいとお願いしたところでした。

まったく瓜二つと言っていい絵が、見つかったのです。

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絵画ではなく寄せ木細工で、制作したのは、クリムトに連なる系譜の、ヨーゼフ・エンゲルハルト。当方、寡聞にしてその名を存じませんでした。明治37年(1904)ごろ、セントルイス万博に出品されたとのことです。明治42年(1909)にカタログとして刊行され、何らかの方法で智恵子の目に止まったのでしょう。

といって、堀氏もおっしゃっていましたが、現代の感覚の「パクリ」ではなく、当時は『白樺』にしてもそうでしたし、外国の絵を模写して使うということは広く行われており、それによってその価値が激減というわけではありません。このあたり、今後、美術史家の皆さんに論じていただきたいものです。

この件については、また書きます。
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追記 「智恵子による『青鞜』創刊号表紙絵元ネタ。

さて、「レモン忌」。講演のあとは第三部ということで、会食をかねて懇親会。

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合間にさまざまな方のスピーチ。

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生前の光太郎をご存じの、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏、智恵子が所属した太平洋画会(現・太平洋美術会)の坂本富江さん、テルミン奏者・大西ようこさんなど、連翹忌ご常連の方々も多数。

それから、、昨年暮れに逝去され、二本松ご在住だった児童文学者・金田和枝さんの妹さん。話し方がそっくりなので、驚きました。

連翹忌同様、こちらの集いも、末永く続いてほしいものです。


その他、他にも廻りましたので、そのあたりはまた明日。


【折々のことば・光太郎】

部落の人は兎もとらず鳥もとらず、 馬コは家族と同等で おんなじ屋根の下にねる。 おれもぼんやりここに居るが まつたく只で住んでゐる。

詩「別天地」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

独居自炊の蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村山口地区を謳っています。真冬は過酷な環境でしたが、地区の人々の支えもありましたし、何より美しい自然に囲まれてのそれは、ある意味快適な生活でした。