光太郎の朋友・荻原守衛の談話筆記が載った古い雑誌を入手しました。

『商業界』という雑誌で、明治43年(1910)1月1日発行の臨時増刊号。「世界見物」という副題です。

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その名の通り、世界各地のレポート、観光案内などから成り、そのうち、フランスを紹介する項の中に、守衛による「仏蘭西の美術学生」と題する談話筆記が載っていました。

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守衛は海外留学でアメリカとフランスを行ったり来たりしており、滞仏していたのは、明治36年(1903)から翌年にかけてと、同39年(1906)から翌年にかけてです。39年の夏頃、ニューヨークで光太郎と知り合っています。守衛2度目の滞仏中は、光太郎はまだニューヨーク、そしてロンドンでしたが、ロンドンに移ってからは、パリの守衛とお互いに行き来しています。

そういうわけで、光太郎も見たであろう同じパリの風俗が、ほぼリアルタイムで語られており、非常に興味深く拝読しました。光太郎自身にもパリの回想や、守衛のこれと同じような雑誌への寄稿もありますが、それを補うような内容でした(守衛以外の人物が書いたパリの様子も)。

守衛は同43年(1910)、数え32歳の若さで病歿します。その翌年、雑誌等に発表された文章を集めた『彫刻真髄』という書籍が刊行されました。光太郎が雑誌『方寸』に寄せた追悼文「死んだ荻原君」なども掲載されています。
「仏蘭西の美術学生」は、『彫刻真髄』には漏れていますが、信州安曇野碌山美術館さんの学芸員氏によれば、同館元館長の仁科惇氏の書かれた『荻原碌山 その生の軌跡』(昭和52年=1977)の中で紹介されているということでした。

で、もともとその予定で購入したので、『商業界』、碌山美術館さんに転送しました。あるべきものがあるべきところに収まって、良かったと思います。

碌山美術館さんといえば、先の話ですが、12月2日(土)に、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」が開催されます。パネルディスカッション的なものですが、それほど肩のこらない企画です。当方にパネリスト的な依頼があり、喜んでお引き受けいたしました。近くなりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

その詩を戦地の同胞がよんだ。 人はそれをよんで死に立ち向かつた。 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

連作詩「暗愚小伝」断片の「わが詩をよみて人死に就けり」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

昨日同様、連作詩「暗愚小伝」全20篇を構想する中で、結局は没になった一篇から。終戦の年からの、花巻郊外旧太田村での、自虐に等しい7年間の山小屋生活を送らざるを得なかった理由、それが凝縮された一節です。