昨日まで1泊2日で、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。
まずは光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する高村光太郎記念館さんの「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」。状況をわかりやすくするために、新聞各紙の報道を引用いたします。
一昨日の『朝日新聞』さん。
岩手)智恵子の紙絵を公開 15日から高村光太郎記念館
花巻市太田の高村光太郎記念館で15日から企画展「智恵子の紙絵・智恵子抄の世界」が始まる。光太郎の妻智恵子が、晩年の療養中に包装紙や色紙をはさみで切り抜いて作った「切り抜き絵」のオリジナルや複製品など約30点を集めた。同館は「繊細で豊かな智恵子の色彩感覚を間近で感じ取ってほしい」としている。11月27日までで、期間中は休館しない。 心の病に侵された智恵子が1938年に52歳で亡くなるまで、療養の一環として光太郎にだけ見せるため制作した。アジやイチゴなどを繊細に切り取って台紙に貼り付けたもので、光太郎が「紙絵」と名付けた。戦時中も作品を花巻市や山形県などに疎開させたため、焼失を免れたという。(溝口太郎)
続いて昨日の『岩手日報』さん。
智恵子の紙絵に光 花巻・高村光太郎記念館企画展
花巻市太田の高村光太郎記念館で15日、企画展「智恵子の紙絵・智恵子抄の世界」が始まった。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)の妻智恵子(1886~1938年)に光を当て、色彩豊かな切り絵作品を紹介する。 福島県二本松市出身で洋画家だった智恵子は芸術的苦悩から心を病み、病床で包装紙と小さなはさみで花や果物をモチーフに創作活動を続けた。
展示作品約30点はいずれも最晩年の作。細部にこだわる繊細さと、構図や色使いの大胆さを併せ持つ。光太郎との唯一の合作「いちご」も展示する。
映画「智恵子抄」のポスターなど関連資料を紹介し、花巻高村光太郎記念会が詩集「智恵子抄」ゆかりの風景を取材した映像作品も上映。同会企画担当の高橋卓也さん(40)は「(智恵子が)本能のまま無垢(むく)のセンスで仕上げた作品を間近に見てほしい」と来場を呼び掛ける。
11月27日まで午前8時半~午後4時半。休館日なし。入場料は一般550円、高校・学生400円、小中学生300円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
というわけで、花巻高村光太郎記念会さん所蔵の、実物の紙絵2点。
あとは複製ですが、遠目には区別が付かない精巧なものです。
「花巻高村光太郎記念会が詩集「智恵子抄」ゆかりの風景を取材した映像作品」は、プロジェクタで上映されています。下の画像の右上です。
その下が「映画「智恵子抄」のポスター」。昭和32年(1957)の東宝版(原節子さん主演)、同42年(1967)の松竹版(岩下志麻さん主演)のものです。
他にそれらの公式パンフレット、それから光太郎生前の昭和26年(1951)と同28年(1953)に、東京で開催された智恵子紙絵展のパンフレットも展示されています。そのあたり、当方がお貸しいたしました。
一昨日も、早速、秋田県大仙市から団体さんがお見えでした。ありがたいかぎりです。
また、同じ敷地内の旧高村記念館、先月から「森のギャラリー」として利用されています。
現在、盛岡市の岩手県立美術館さんで、企画展「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」が開催中。昨年、NHKさんの朝ドラ「とと姉ちゃん」で扱われた、雑誌『暮しの手帖』編集長だった花森安治の関連です。それに合わせ、森のギャラリーでも『暮しの手帖』などが展示されています。
花森と共に、同誌の編集に当たった大橋鎭子は、昭和25年(1950)、光太郎にも寄稿を依頼するため、旧太田村の山小屋にもやってきました。その際に持ってきたか、その前後に東京から送ったものです。結局、光太郎の寄稿は実現しなかったようですが。
ぜひ足をお運び下さい。
ただし、注意が一点。記念館周辺、熊が出没しています。
基本的には臆病な動物なので、人気のない時間帯に歩いているようですが……。
【折々のことば・光太郎】
不思議なほどの脱卻のあとに ただ人たるの愛がある。 雨過天青の青磁いろが 廓然とした心ににほひ、 いま悠々たる無一物に 私は荒涼の美を満喫する。
連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」より
昭和22年(1947) 光太郎65歳
昭和20年(1945)、4月の空襲で東京を焼け出され、宮沢賢治の実家に身を寄せた光太郎。その宮沢家も終戦5日前の空襲で全焼し、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅で、8月15日を迎えました。正午には近くの鳥谷ヶ崎神社で玉音放送を聴いています。
10月には郊外太田村の、熊が歩き回る山小屋に移り住み、その頃には忠君愛国精神の呪縛から解き放たれ、「ただ人たるの愛がある」という境地に達しました。
「卻」は「却」の正字です。