福井から、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚を取り上げる企画展情報です。

没後30年記念 高田博厚展 対話から生まれる美

期 日 : 2017年9月16日(土)から11月5日(日)
会 場 : 福井市立美術館  福井市下馬3-1111
時 間 : 午前9時 ~ 午後5時15分(入館は午後4時45分まで)
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日(日曜日を除く)
料 金 : 一般1,000円、高校・大学生500円、小中学生200円

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福井市ゆかりの彫刻家・高田博厚(19001987)が、この世を去り今年は30年となります。高田の生涯を彩る多くの師友との交流は、人間の本質を追求し続けた彼の思索と創作の支えともなりました。本展では初期から晩年までの代表作に加え、彼が影響を受けた人々や交流のあった人々の作品を併せて展覧し、その生涯と創作の軌跡、さらに彼の芸術の魅力に迫ります。


『福井新聞』さんの記事から。

高田博厚の生涯たどる 福井市美術館16日から企画展

 少年時代を過ごした福井で文学、哲学、芸術に目覚め、渡仏して近代日本彫刻を代表する作家となった高田博厚(1900-87年)。没後30年を記念し、評論家、思想家としても数々の著作を残し、日本、欧州で一流の文化人と交わったスケールの大きな生涯を、代表作や影響を受けた巨匠の名品とともに展観する企画展「高田博厚展―対話から生まれる美」(福井新聞社共催)が16日から、福井市美術館で開かれる。
  石川県七尾市生まれの高田は、2歳のときに福井県出身だった父の弁護士開業のために福井市に移り住み、18歳までを過ごした。学校の勉強よりも哲学や文学、美術書に熱中する早熟な生徒だった。
  上京後は彫刻家、詩人の高村光太郎と親しく交わり、独学で彫刻を始めた。31年に妻と4人の子どもを東京に残して渡仏。近代彫刻の巨匠ロダン、ブールデル、マイヨールの作品を目の当たりにし、10年間彫刻をやってきた自負は砕け散ったという。
  だが文豪ロマン・ロランをはじめ哲学者アラン、詩人のジャン・コクトーら知識人の輪に招き入れられ、友情に支えられた。高田は彫刻に没頭し、他者、自己との対話を通じて感性を磨き、思索を巡らせた。やがて、彼らの内面や精神の面影までも照らし出すような肖像彫刻を制作するようになる。結局パリ滞在は第2次世界大戦をまたぎ、27年間に及んだ。
  展覧会は福井・東京時代からパリ時代、帰国後の東京・鎌倉時代へと生涯をたどる5章構成。肖像、人体像を中心とした収蔵品に借用品を加えた計65点と、晩年を過ごした鎌倉市などから借り受けた愛蔵品、アトリエにあった制作道具なども並べる。
  パリ時代に手掛けた傑作トルソー「カテドラル」(1937年)や、ロランやアラン、ガンジーら交流のあった人々の肖像彫刻をはじめ、若き日の高田に衝撃を与えたロダンの「ロダン夫人」(1882年、大原美術館寄託)やマイヨールのトルソー「ヴィーナスの誕生」(1918年、群馬県立近代美術館蔵)などの名品も併せて展示。高田の像の特異性を浮き彫りにする構成となっている。
  洋画家岸田劉生の元を訪ねた際に持参した18歳のときの油彩画「自画像」(1918年、個人蔵)や、貴重なドローイングも並べる。福井市美術館の鈴木麻紀子学芸員は「西洋彫刻の精神性を理解し、モデルの内面の本質に迫ることを重視した高田は、『似ていなければ、彫刻に似せていけばいい』とまで言い切り、自分の表現を求めた。福井にこんなスケールの大きな作家がいたことを知ってほしい」と話している。
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 11月5日まで。一般千円、高校・大学生500円、小中学生200円。10月1、7、14、22日は午後2時から作品解説会がある。10月28日には高村光太郎と妻智恵子、高田の人間模様を描いた朗読劇を3回上演する。問い合わせは福井市美術館=電話0776(33)2990。


というわけで、高田の企画展というだけでは紹介しないのですが、光太郎智恵子にかかわる朗読劇があるとのことで、取り上げさせていただきました。ただ、ネットで調べても詳細な情報が未掲載です。

詳しく分かりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】 

午前二時に私はかへる。 電信柱に自爆しながら。

連作詩「暗愚小伝」中の「暗愚」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦争が烈しくなってきてからの回想です。午前二時にどこから帰るのかというと、「場末の酒場」からだそうです。「金がはいるときまつたやうに/夜が更けてから家を出た」そうです。「心にたまる膿のうづきに/メスを加へることの代りに」飲んだくれていたとのこと。

大量の翼賛詩を書き殴りながら、戦況は日に日に悪化。学徒出陣の若者などが、出征前に光太郎に会いに来たりということも少なからずありましたが、中には戦死してしまった人もいたわけで、負い目を感じながらも国民を鼓舞することをやめられなかった、己の「暗愚」が描き出されています。