このブログでたびたび取り上げさせていただいております、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で、東日本大震災前にかつて建っていた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。
先月11日には、町内小屋取浜と御前浜に新たに建立され、予定の全21基中、16基が竣工したそうです。
先月末、中心になって活動している、女川第一中学校(現・女川中学校)の卒業生の皆さんの活動を紹介する集会が、東京大田区で開かれ、『毎日新聞』さんの東京版と宮城版でそれぞれ紹介されました。
「1000年後の命を守りたい」 津波到達点に石碑を 宮城・女川中卒業生、活動紹介の集会 大田 /東京
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の女川中学校卒業生が、津波到達点に石碑を設置する活動を続けている。活動を紹介する集会が26日、大田区で開かれ、卒業生は「1000年後の命を守りたい」と、約80人を前に防災への意気込みを語った。 女川町は震災で人口約1万人のうち873人が犠牲となった。震災直後に中学に入学した卒業生らは「悲しみを繰り返してほしくない」と町内全21地区の津波到達点に石碑を設置する活動を始め、現在までに16基を設置。全国の同世代に伝えるため、3月に教訓をまとめた「いのちの教科書」も作製した。
卒業生らは活動にかけるそれぞれの思いを語った。震災で母と祖父母を失った鈴木智博さん(18)=女川町=は「一度避難したのに自宅に戻って亡くなった人がいた。石碑に『絶対に戻らないで』と強い口調の言葉を入れた」と紹介。大学1年の渡辺滉大(あきと)さん(19)=同県石巻市=は「防災が空気のように当たり前になってほしい」と訴えた。
卒業生を囲んで車座になった参加者は「大人も震災を忘れてはいけない」などと語り合った。卒業生の一人、木村圭さん(18)=荒川区=は「いろんな方と話して、中学時代は会ったことのない多くの人に支えられ、見守られていたんだと実感した」と振り返った。【百武信幸、伊藤直孝】
女川町の広報誌、『広報おながわ』の先月号には、こんな記事も。
2番目に碑が建てられた、同町竹浦地区に関するもので、同区長・鈴木成夫さんの談話に、「今、海を見下ろす境内には、いのちの石碑が立っています。ここに居住する誰もが安心して住めるまちになりました。」とあります。
そういえば、やはり先月末、NHK BSさんで、アニメドキュメント「女川中バスケ部 5人の夏」という番組が放映されました。実話を元に、昨年の夏、全国大会出場を目指してがんばった、「いのちの石碑」プロジェクトメンバーの後輩たち、女川中学校女子バスケットボール部を描いたアニメです。
東北を舞台としたこの番組のために、東北ゆかりの人々が集まってくれました。チームを支える町の大人たちを演じたのは、ベテラン声優・山寺宏一さん(宮城県出身)と、人気お笑いコンビ・サンドウィッチマン(宮城県出身)のお二人。さらに、プロバスケットボールプレーヤーの大神雄子さん(山形県出身)が本人役として登場し、音楽を担当したのはシンガーソングライター・遊佐未森さん(宮城県出身)でした。そして、番組ナレーションは、やはりNHKさんの大河ドラマ「八重の桜」に主演され、東北とも縁の深い綾瀬はるかさんでした。
この中で、一瞬でしたが、「いのちの石碑」が背景に使われていました。
女川を代表する風景の一つとなっているということかもしれません。
今後とも「1000年後の命を守る」ためにがんばっていただきたいものです。
「一瞬映った」といえば、先週、やはりNHKさんで放映された「ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」。こちらでは、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が、2秒間(笑)映りました。
残念ながら詳しい紹介はなかったのですが、やはり十和田湖を代表する風景の一つということでしょう。
その他、二重カルデラ湖としての十和田湖、V字形の「渓谷」ではなくU字形の「渓流」である奥入瀬渓流の成り立ち、ヒメマスやらコケやらの話など、なかなか充実した内容でした。
今夜、再放送があります。25時00分~25時45分ということで、日付が変わって明日未明、午前1時からですね。
見逃された方、ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
私のあたまはその時、 誰かの手につよく押へつけられた。 雪にぬれた砂利のにほひがした。 ――眼がつぶれるぞ――
連作詩「暗愚小伝」中の「土下座(憲法発布)」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳
花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での蟄居生活の中、自らの戦争責任に向き合い、さらには遡っての自らの来し方を検証する連作詩「暗愚小伝」が生まれました。全20篇、7つの章立てで、第一章が忠君愛国の精神を叩き込まれた幼少年期を語る「家」。その冒頭を飾るのがこの詩です。
明治22年(1889)2月11日の憲法発布式に伴う明治天皇の上野行幸の列を見物する数え7歳の光太郎。「誰か」の背に負われて見物に来ています。やがてやってきた箱馬車。「誰か」は「頭が高い」とばかりに光太郎の頭を押さえつけました。詩の中では「誰か」が誰なのか、具体名は挙げられていません。実際にはこの年、東京美術学校に奉職する光太郎の父・光雲、または天狗の存在を確信していた祖父・兼松、あるいは光雲の弟子筋の若い衆かもしれません。しかし、具体名が挙げられていないことから、幼少期の光太郎を取り巻いていた、旧弊なこの国全体の象徴、と捉えることも可能かと思われます。
第一章「家」では、その他、日清日露の両戦争や、帝室技芸員に上り詰めた光雲と皇室のからみなどが謳われます。そこには、頭を押さえつけられたまま過ごした幼少年期の光太郎が居ました。