昨日の『岩手日日』さんの記事です。
雨ニモマケズ一歩一歩 ツーデーマーチ 県内外1107人が交流【花巻】
花巻の豊かな自然を歩いて体感する第20回いわて花巻イーハトーブの里ツーデーマーチ(イーハトーブフォーラム実行委主催)は19、20の両日、花巻市内を巡る距離別8コースで行われた。県内外から2日間で延べ1107人が参加し、花巻の観光スポットやウオーカー同士の交流を楽しみながらゴールを目指した。 イーハトーブフォーラムのイベントとして毎年実施され、今回は5キロから40キロまでの8コース(1日4コース)に北は北海道、南は鹿児島県から19日606人、20日は501人が参加した。
最終日の朝は霧雨が降る悪条件となったが、参加者は傘を差したり雨具を身に着けたりして同市大通りのなはんプラザに集結。「雨にも負けず完歩しよう」「いつまでも平和で歩けるといいですね」などのメッセージ入りのゼッケンを着けて「元気よく歩くぞ エイエイオー」と気勢を上げ、力強い足取りでスタートを切った。
出発式であいさつした県ウオーキング協会の佐藤良介会長は「宮沢賢治、高村光太郎のゆかりの地を訪ねて歩くコースなどがある。足元に気を付け、楽しみながら完歩をめざしていただきたい」と激励。前回に続く2度目の参加で、初日は賢治文学散歩のコース、最終日は花巻温泉郷コース(ともに20キロ)に挑戦した福井県福井市の会社役員澤村玲子さん(73)は「市民の方々の親切なおもてなしに感激し、今年も参加した。60年以上の賢治ファンなので、とても満足できるイベント」と笑顔を見せた。
発着点のなはんプラザには、これまでのツーデーマーチのパンフレットや県内外のウオーキングイベントを撮影した写真を展示。参加者には20回の記念タオルやバッジなどが贈られた。

花巻でこの手のイベントが行われているのは存じておりましたが、「宮沢賢治、高村光太郎のゆかりの地を訪ねて歩くコース」というのは存じませんでした。
調べてみましたところ、なるほど、郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)方面へのコースが、「光太郎と賢治出会いのコース」となっていました。



光太郎がその碑文の文字を揮毫した、賢治の「雨ニモマケズ」詩碑もコースに入っており、そんなことから「光太郎と賢治出会いのコース」なのでしょう。距離は30キロだそうで、楽勝、という距離ではありませんが、無理、というわけでもなく、歩き甲斐はありそうですね。この手のイベントででもなければ歩こうとは思わない距離でもありましょう。
もう20回を数えるイベントだとのことですが、今後とも継続していってほしいものです。
ところで、ウオーキングの大会として、日本最大の規模を誇るのが、埼玉県東松山市で行われている「日本スリーデーマーチ」。その発展に尽くされた同市元教育長の故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と交流がおありでした。今年2月に逝去され、今秋行われる「日本スリーデーマーチ」は、氏の歿後初めての開催となります。
光太郎も歩くことが好きでした。奇縁を感じます。
【折々のことば・光太郎】
鋼鉄の武器を失へる時 精神の武器おのづから強からんとす 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
詩「一億の号泣」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳
亡き智恵子と共に暮らした思い出深い駒込林町のアトリエを焼け出され、賢治実家の厚意で身を寄せていた花巻の鳥谷ヶ崎神社で聴いた終戦の玉音放送に題を採った詩です。
それまでに大量に書き殴っていた翼賛詩のなごりがまだ見えますが、その翼賛詩にしろ、決して敵国人の鏖殺を目的としたものではなく、「真と美と到らざるなき我等が未来の文化」建設のため、という意図がありました。
始まってしまった戦争であれば負けるわけにはいかない、塗炭の苦しみにあえぐ国民を勇気づけたい、そういう意図があったことは非難できません。
しかし、戦後の光太郎は、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を厳しく断罪するのです。