宮城県女川町で8/9に開催されました、第26回女川光太郎祭関連で、女川ネタを続けます。
若干古い話ですが、先月末、花巻、盛岡を訪れた際、借りていたレンタカーのラジオで聞いたNHK FM東北さんのローカルニュースです。
中学生が被災地で震災の教訓学ぶ
東日本大震災の被害や教訓を学ぼうと、七ヶ浜町の中学生が、震災で大きな被害を受けた女川町を訪れ、発生した当時の状況などを聞きました。女川町を訪れたのは、震災について学ぶ活動を続けている七ヶ浜町の向洋中学校の1年生から3年生までの生徒あわせて26人です。
生徒たちは、震災が発生した際、多くの住民が避難した女川中学校の校舎を訪れ、当時、教員として勤務していた佐藤敏郎さんから話を聞きました。
この中で、佐藤さんは、発生直後、割れた窓ガラスの破片が避難路に散乱し、生徒たちが思ったように避難できなかったことを説明し、日頃からさまざまな被害を想定しておくことが重要だと強調していました。
また、佐藤さんは、女川中学校の生徒や卒業生が、震災後、教訓を伝える石碑を町内各地に建てる活動を行っていることも紹介し、生徒たちは、時おりメモをとりながら真剣な表情で聞いていました。
自身も七ヶ浜町で被災し、家族を亡くしたという3年生の阿部杏珠さんは「自分は震災のことをあまり話したくなかったのに、女川の人たちはちゃんと伝えようとしていてすごいと思いました。自分もまずは身近な人から伝えていきたいと思います」と話していました。
同じ内容をテレビのニュースでも報じたようで、しばらくNHK東北さんのサイトで動画も見られました(現在は削除)。
「教訓を伝える石碑」が「いのちの石碑」です。この上の画像2枚に写っています。
東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒さんたちが発案、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に碑を建て、大地震の際にはそこより上に避難するためのランドマークとするというもので、既に半数以上が設置されています。合い言葉は「1000年後の命を守る」。平成3年(1991)、かつての海岸公園に建てられた光太郎文学碑に倣い、「100円募金」で設置費用をまかなうとして始められました。それぞれの碑には、当時の中学生たちが国語の授業で詠んだ句も刻まれています。
このブログでもたびたびその動向をご紹介しています。
8/10(木)の『朝日新聞』さん宮城版でも取り上げられています。
宮城)女川の子どもたちのそばに居続けた阿部一彦先生
■震災6年5カ月(11日に想う) 私は社会科の教員です。でも今は、子どもたちが私の先生です。
矢本二中の阿部一彦教頭(51)は震災の時、女川一中(現・女川中)の3年生を受け持っていた。
午後2時15分、次の日に卒業式を控えていた92人の3年生を帰しました。帰さなきゃよかった。教え子を2人殺してしまいました。おばあさんの車いすを押していたのが、けんちゃんの最後の姿。今も見つかっていません。
学校は避難所になり、コピー用紙も古い教科書も燃やしてたき火をしました。女の子が友だちと話していました。「逃げるとき何か踏んづけた。見たら近所のおばあさんだった。(頭を)ハンカチで包んでご家族に届けた……」
なんにも言えなかった。怖くて。避難所に来た子にどうだったと聞いて、「お父さんがいなくなった」と言われたら何もできない。おなかすいたと言われても何もできない。ずっと子どものそばにいよう。横で同じ空気を吸おう。それしかできなかった。
◇
被災した地域のどこよりも早く、4月8日に始業式をすることになりました。教育長が「子どもが手足を伸ばせる場をつくらないとだめだ」と。鉛筆も教科書も楽器もなかったけど、同僚だった佐藤敏郎先生と「子どもと先生がいれば、学校はできる」と確信していました。
新1年生の学年主任になり、ふるさとや震災について考える授業に取り組んだ。子どもたちは「千年後の命を守る」を合言葉に、浜に「ここまで逃げて」と呼びかける石碑を建て、防災を学ぶ「いのちの教科書」を作り始めた。
町の縄文遺跡を生徒と回ると、全部残っていました。悔いました。それまでの23年間、何を教えていたんだろうと。縄文時代の授業の時、「縄文遺跡まで逃げるんだよ」とたったひと言伝えていれば、2人は亡くならずにすんだのに。そして、子どもたちが言ったんです。「過去を知ることは未来を創造することだ」
津波対策案を考えた時のことです。ななみさんが涙ながらに言いました。「逃げようと言っても逃げない人がいる。どうするの」。ななみさんのおじいさんはなかなか逃げない近所の人に避難を呼びかけていて津波にのまれたのです。私は答えられませんでした。
こうせい君から出てきた答えは「絆」です。「はやりの言葉か」と思ったら、避難所で食べ物をくれた人がいるから助かったと。さらに、逃げなかった人も家族や親友が逃げろといえば逃げたし、そうすればおじいさんも助かったと言うんです。私はただただ、「すごいなあ」と言いました。
教科書づくりのアイデアを出したのは、社会科が大っきらいな男の子です。授業中に突然手をあげて、「小学1年生から順番に学べるものを作ろう」。子どもたちはみんな、やりたいことを持っている。
高校生になっても、15人ほどが活動を続けました。集まったのは3年間で108回。いつまでやるのと聞いたら、「死ぬまで」。
◇
子どもたちはこの春、高校を卒業した。看護師、物書き、サッカー選手……。中2の時に「立志の会」で語った自分の夢に、多くの子が近づいている。
あきと君が最近、「防災を空気にしたい」と話していました。ご飯を食べ、水を飲むように、防災を考えることを当たり前にしたい。そんな言葉、教科書だけで教えても出てきません。子どもの意欲がないと最近言われるけど、それは引き出していないから。女川の子たちも普通の子。場があれば、自律的な学びになっていきます。
震災で得たものは一つ。すべての答えはそれぞれの子どもの中にあるということです。たくさんのことを教えてくれた先生たちに、11日、久しぶりに再会します。(中林加南子)
愛知から訪ねてきた中学生に石碑の説明をする阿部一彦先生=5日、女川町竹浦
さらに石碑だけでなく、「いのちの教科書」というプロジェクトも進行中だそうです。今後とも「1000年後の命を守る」ためにがんばっていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
青年は親からはみ出す。 時々親をばかにする。 しかしいよいよといふ時には、 いつでも母をよび父をよぶ。 親は青年のいきほいひに驚く。 それを見て生きるかひがあると思ふ。
詩「青年」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳
いつしか「復興のトップランナー」と言われるようになった女川町。行政も積極的に動いていますが、行政任せにせず、住民が自分たちで知恵を出し合い、動いています。特に若い世代が進んで先頭に立ち、高齢者世代は口を出さないという暗黙の了解が出来ている部分があるそうです。女川の復興を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール 女川つながる人々」に、そういう話が紹介されていました。
「いのちの石碑」「いのちの教科書」などのプロジェクトにもそういう部分があるのでしょう。
なかなか勇気のいることだと思いますが、変なしがらみに縛られないためにはそれも大切なことでしょう。もちろん「いよいよといふ時には」世代を超えて協力することが必要だと思いますが。