7/29(土)、花巻郊外の台温泉に宿を取りました。
台温泉は、花巻温泉の奥に位置し、室町時代に発見された古い温泉です。豊富な湯量を誇り、かつては川に流していた余剰の湯を、花巻温泉に回しています。こちらにも光太郎が宿泊しています。
光太郎日記によれば、昭和26年(1951)に2回、1泊ずつ泊まっています。2回目は、草野心平も一緒でした。宿泊は、今も残る松田屋旅館さんでした。
光太郎日記によれば、昭和26年(1951)に2回、1泊ずつ泊まっています。2回目は、草野心平も一緒でした。宿泊は、今も残る松田屋旅館さんでした。
以下、日記から。
10月19日 金
晴、くもり、 花巻行、 十二時十三分のでゆく。花巻局より中央公論社へ選集三回分の原稿を速達書留小包で送る、ニツポンタイムスへ一年分の金を送る、 夜六時半公民館の賢治子供の会の劇を見る、 九時、タキシで台温泉松田屋旅館にゆき泊る、(略)
10月20日 土
台温泉の湯よろしけれど、遊客多く、さわがし。 雨となる、 九時半のバスにてかへる、(略)
12月7日 金
(略) そのうち草野心平氏来訪、 (略) ヰロリで暫時談話、 後洋服をあらためて一緒に出かけ、花巻伊藤屋にてにて四人でビール等、 草野氏と共にタキシで台温泉松田家(原)にゆき一泊、ビール等 <(あんま)>
12月8日 土
朝雨後晴、 昨夜妓のうたをきき二時にねる、 花巻温泉まで歩き、花巻より盛岡までタキシ(2000円)、よきドライブ。
というわけで、日記に依れば、この2回の宿泊が確認できます。ただ、昭和24・25年(1949・1950)の日記の大部分が失われているため、その間にも宿泊しているかもしれません。傍証は談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」(昭和31年=1956)。台温泉に関し、「湯がいいので私もたまに行く」という記述があります。2回では「たまに行く」とは言わないような気がします。
さて、松田屋旅館さん。
宿の方にお訊きしたところ、戦後すぐくらいの建築だそうで、となると、光太郎が泊まったのもこの建物のようです。それを存じ上げなかったので、いっそう感慨深いものがありました。ただし、かなり改修、改装は入っているようですが。
いったいに台温泉自体が、レトロな街並みのひなびた温泉街、という感じで、非常に気に入りました。
松田屋さんから少し上には、これもかなり古い中嶋旅館さんという旅館がありました。こちらも実にいい風情です。温泉街に付きものの温泉神社も鎮座ましましていました。
下は松田屋さんの露天風呂。源泉掛け流しで、湯が出てくるところではほとんど熱湯です。熱めの温泉大好きの当方には嬉しいかぎりでした。
ロビーには昔の絵図。これもお約束ですね。
光太郎は先述の談話筆記「ここで浮かれ台で泊まる/花巻」で、このように書いています。心平も登場しますので、おそらく、昭和26年(1951)12月7日から8日未明にかけてのことでしょう。
台温泉は花巻線の終点から一里ばかり奥になる。電車の発着ごとにバスが出ている。
狭い所なのだが温泉宿が十軒以上も建並び、芸妓屋もうんとある。湯がいいので私もたまに行くが、夜っぴいて三味線を、ジャンジャンとやられるのには閉口する。その代り、えらく念入りのサービスだから、東京の人でもまず満足するだろう。熱海でこんなことが流行っているというと、逸早く真似をするという所である。山の懐ろだが、そういう点ではバカに先走っている。
以前に草野心平と一緒に台を訪れたことがあるが、隣でさわぐ、階下じゃ唄う、向うで踊るという次第で、一晩中寝られない。そこでこっちも二人で飲み出した。二人の強いのを知って、帖場からお客なんか呑み倒しちまう、という屈強な女中が送り込まれたのに張合った。たちまち何十本と立ちならんだ。まったくいい気になって呑もうものなら、大変なことになるところだ。
しかし、よくしたもので、それだけに宴会などをやらせれば、それは面白くやれる。一口に云えば、花巻で浮かれて、お泊まりは台さ、としけこむところである。
以前に草野心平と一緒に台を訪れたことがあるが、隣でさわぐ、階下じゃ唄う、向うで踊るという次第で、一晩中寝られない。そこでこっちも二人で飲み出した。二人の強いのを知って、帖場からお客なんか呑み倒しちまう、という屈強な女中が送り込まれたのに張合った。たちまち何十本と立ちならんだ。まったくいい気になって呑もうものなら、大変なことになるところだ。
しかし、よくしたもので、それだけに宴会などをやらせれば、それは面白くやれる。一口に云えば、花巻で浮かれて、お泊まりは台さ、としけこむところである。
まさに「心の洗濯」をしていた姿が、ありありと浮かびます。
当方は、一泊して温泉を堪能、7/30(日)朝、こちらを後にしました。
麓の花巻温泉、昨年も行きましたが、通り道ということもあり、レンタカーを駐めて少し歩きました。
昭和25年(1950)に建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加している、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑。
やはり光太郎が何度か泊まった、旧松雲閣別館。現在は使用されていません。
松田屋さんも含め、こうした遺産、末永く保存していってもらいたいものです。
その後は一路、盛岡へと北上。続きは明日。
【折々のことば・光太郎】
この男の貧はへんな貧だ。 有る時は第一等の料理をくらひ、 無い時は菜つ葉に芋粥。 取れる腕はありながらさつぱり取れず、 勉強すればするほど仕事はのび、 人はあきれて構ひつけない。 物を欲しいとも思はないが 物の方でも来るのをいやがる。
詩「へんな貧」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳
それを「清貧」と人は呼ぶのですが、光太郎にはそういう自覚はなかったようです。むしろ、こうした生活が前年になくなった智恵子を追い詰めた、という悔恨の方が先に立っているような気がします。