7/29(土)夕刻、花巻高村光太郎記念館さんに到着。この日は記念館さんの市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」の講師を仰せつかっておりました。

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市の広報誌などでも宣伝していただき、十数組、30名ほどの親子と、地元の方が若干名、ご参加下さいました。せっかくそれだけの申し込みがあったにもかかわらず、あいにくの曇り空でした。

ところが、開始時刻が近づくと、雲が切れ始めました。

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これなら、少しは星も見えるかな、という感じでした。

午後七時、記念館の展示室1、光太郎彫刻が並んでいるスペースで、開会。

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はじめに当方の話でした。ただ、メインは星空の観察ですので、短く切り上げました。彫刻や詩歌で「美」を追い求めた光太郎、山川草木鳥獣虫魚などの大自然にも美を見いだし、その一環として、天体にも関心を持っていたらしいこと、特に、記念館のある旧太田村山口に隠遁してから、市街地では気づきにくい天体の美しさに憑かれたこと、約70年前に光太郎が見上げたのと同じ星空と思って見てほしいことなどをお話しさせていただきました。

レジュメでは、天体についての記述がある光太郎文筆作品を紹介しました。はじめにこの企画の話が出た際、当方が講師を仰せつかるつもりもなく、適当に「こんなものまとめましたので、よかったら使って下さい」と、お送りしたもので、それも急いで作ったので、文筆作品といっても、『高村光太郎全集』の、詩歌、随筆、日記の巻を斜め読みし、ピックアップしたに過ぎません。それでも、数多くの箇所が見つかりました。

特に昭和24年(1949)に書かれた随筆「みちのく便り 一」には、山小屋から見える天体の魅力をかなりくわしく書いています。

 みちのくといへば奥州白河の関から北の方を指すのでせうが、さうすると、岩手県稗貫郡といふ此のあたりは丁度みちのくのまんなか位にあります。北緯三十九度十分から二十分にかけての線に沿つてゐる地方です。有名な緯度観測所のある水沢町はここから南方八里ほどのところにあり、天体も東京でみるのとは大分ちがひます。星座の高さが目だち、北斗七星などが頭に被ひかぶさるやうな感じに見えます。山の空気の清澄な為でせうが、夜の星空の盛観はまつたく目ざましいもので、一等星の巨大さはむしろ恐ろしいほどです。星座にしても、冬のオライアン、夏のスコーピオンなど、それはまつたく宇宙の空間にぶら下つて、えんえんと燃えさかる物体を間近に見るやうです。木星のやうな遊星にしても、それが地平線に近くあらはれてくる時、ほんとに何か、東京でみてゐたものとは別物のやうな、見るたびにびつくりするやうなもので、月の小さいものといいたい位にみえます。その星影が小屋の前の水田の水にうつると、あたりが明るいやうに思はれます。星の光は妙に胸を射るやうに来るものです。昔の人が暁の金星を虚空蔵さまと称した、さういふ畏敬の念がおのずから起るやうです。夜半過ぎて用足しに起きた時など、この頃の寒さをも忘れて私はしばらく星空を眺めずにはゐられません。このやうな超人的な美を見ることの出来るだけでも私はこの山の小屋から去りかねます。かういふ比較を絶した美しさを満喫できるありがたさにただ感謝するほかありません。たかだかあと十年か二十年の余命であつてもその命のある間、この天然の法楽をうけてゐたいと思ひます。宮澤賢治がしきりと星の詩を書き、星に関する空想を逞しくし、銀河鉄道などといふ破天荒な構想をかまへたのも決して観念的なものではなくて、まつたく実感からきた当然の表現であつたと考へられます。

このとき光太郎、数え67歳でしたが、まるで少年のように、天体の美しさのとりこになっている様子がよくわかりますね。

その他、特に記述が多いのは、月に関してでした。細かく書いていた山小屋生活前半の日記には、天体についての記述がたくさんあります(後半になると、一日に書く長さが短くなり、あまり天体については書かれなくなってしまいます)。特に月は毎日のように記述があり、イラスト入りでその形を記述している日もありました。

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それからこんなものも。

 もう十五年前のことになります。
 初めて紐育へ行つた五月初旬、街路樹にぱらぱら新芽の出る頃でした。このさき、どうして金をとつて勉強していいか、初めて世の中へ抛り出されて途方に暮れながら、第五街の下宿の窓から、街路の突き当たりに、まんまろく出た満月を見て、故郷の父母弟妹のことを思い、止度なく涙の出たのを忘れません。
アンケート「私が一番深く印象された月夜の思出」(大正11年=1922)

俳句でも。

  自転車を下りて尿すや朧月  (明治33年=1906)
  ドナテロの石と対座す朧月  (明治42年=1909)

そして詩でも、「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)、「月にぬれた手」(同24年=1949)などで月をモチーフにしています。


惑星では、ずばり「火星が出てゐる」(昭和2年=1927)という詩がありますし、他の詩でも、木星やら金星やらが出てくる箇所がけっこうあります。

うすれゆく黄道光に水星は傾き、/巨大な明星と木星ばかり肩をならべて、/いまがうがうと無限時空を邁進してゐる。    「落日」 昭和15年(1940)

ああ、もう暁の明星があがつて来た。  「漁村曙」昭和15年(1940)

詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。同胞の荒廃を出来れば防がう。私はその夜木星の大きく光る駒込台で/ただしんけんにそう思ひつめた。     「真珠湾の日」昭和22年(1947)

日記でも同様です。

昭和20年(1945) 12月25日 夜晴、火星大也 

昭和21年(1946)1月1日   夜天に星きらめく。オリオン星座顕著なり。オリオンのあとより大きく火星がひかる。
                 
昭和21年(1946) 4月16日  木星が丁度中天に来た頃いつもねる。 月と木星と同位置にあり。夜おそくまで村の子供の叫声がきこえる。月明るし。
                     
昭和22年(1947) 2月25日  夜星うつくし。木星、金星未明の頃大きく輝く。
 
昭和22年(1947) 4月17日  夜も星月夜、明方残月と金星と木星美し。    

昭和22年(1947) 4月25日  夜読書、十時、木星サソリ座にあり。 

昭和22年(1947) 4月29日  夜星出る。木星大なり。       

昭和22年(1947) 5月4日  月おぼろ、木星月に近づく、


そして、星座を形作る恒星に関しても。

風の無いしんしんと身籠つたやうな空には/ただ大きな星ばかりが匂やかにかすんでみえる/天の蝶々オリオンがもう高くあがり/地平のあたりにはアルデバランが冬の赤い信号を忘れずに出してゐる
「クリスマスの夜」 大正11年(1922) アルデバラン……おうし座の一等星

腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽの奴は黙つてゐる。/往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
「のつぽの奴は黙つてゐる」昭和5年(1930)    大熊星……北斗七星を含む大熊座

イソゲ イソゲ 」ニンゲ ンカイニカマフナ ヘラクレスキヨクニテ
「五月のウナ電」昭和7年(1932) ヘラクレス……ヘラクレス座

或夜まつかなアルデバランが異様に鋭く、/ぱつたり野山が息凝らして寝静まると、/夜明にはもうまつしろな霜の御馳走だ。
「冬が来る」昭和12年(1937) 

まだ暗い防風林の頭の上では/松のてつぺんにぶら下つて/大きな獅子座の一等星が真紅に光る。/隣の枝のは乙女座だらう。/北斗七星は注連飾のやうだし、/砂丘の向ふの海の方には/ああ、もう暁の明星があがつて来た。
 「漁村曙」昭和15年(1940) 

オリオンが八つかの木々にかかるとき雪の原野は遠近を絶つ 昭和22年(1947)

日記では……

昭和4年(1929) 6月10日  夜天東方よりアークチュラスの星、夏の気息を余の横顔に吹きかく。
            注・アークチュラス…… アークトゥルス。 うしかい座の0等星

昭和21年(1946)1月1日
   夜天に星きらめく。オリオン星座顕著なり。オリオンのあとより大きく火星がひかる。
                                   
昭和21年(1946) 1月28日  風おだやかにて晴れ、星月夜なり。オリヨン君臨す。

昭和21年(1946) 3月7日   夜中空はれ間あり。サソリ座大きく出ていゐ。暁近き頃とおぼゆ。

昭和21年(1946) 3月30日  夜星みえる。夜更けてサソリ座大きく立ってみえる。

昭和21年(1946) 4月7日  夜星出てゐる。サソリ座夜半大きく出る。

昭和21年(1946) 5月3日  星出る。星明り。サソリ座高し。     

昭和22年(1947) 1月15日  空晴れ、オリオン美し。

昭和22年(1947) 1月18日   夜でも寒暖計五度をさしてゐる。軒滴の音がする。オリオン美し。

昭和22年(1947) 4月25日  夜読書、十時、木星サソリ座にあり。

昭和22年(1947) 8月14日  晴、昨夜星らん干。サソリ座大きく見え、暁天に廿七日の月出でたり。

昭和22年(1947) 9月16日  夜、銀河明るし。            

昭和22年(1947) 5月4日  星が出ると、オリオン、大犬等の壮観、

それから、智恵子と結婚した大正前半頃、東京駒込林町のアトリエで飼っていた黒猫の名前は、星座のくじら座から取って「セチ」。その猫を謳った詩や、猫の名前にふれた智恵子の書簡も残っています。

とまあ、こんなことをレジュメに書きましたが、とてもすべて説明している時間はなく、バトンタッチ。ともに花巻ご在住で、天文サークル「星の喫茶室」の伊藤修さん、根子(ねこ)義照さん(猫さんではありません(笑))。

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簡単に天体観測について説明のあと、記念館から徒歩5分ほどの、智恵子展望台へ。当初の予定では、こうでした。

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しかし、この時はまた雲が低くたれ込めており、結局、星は一つも見えませんでした。残念。

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ふたたび記念館へ移動。帰り道、山小屋付近で蛍が光りながら飛んでいました。

記念館では、お二人により、DVDの上映や、天体望遠鏡、写真パネルなどの説明。そうこうしているうちに、雲が切れ始め、講座終了後、参加者の皆さんが帰られる頃には、ぽつぽつ星が見えました。展望台に居る時に見えればベストだったのですが、こればっかりは自然相手ですので致し方在りません。それでも、少しでも星が見えて良かったと思いました。

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講座の前後、伊藤さん、根子さんとお話しさせていただいた中で、お二人とも光太郎がずいぶん天体について記述を残しているのに驚かれていました。また、天文愛好家ならではの着眼で、日記の日付と見ている星座の関係から、時にはかなり早起きして夜明け前に星を見ていたはず、というご指摘。ほう、と思いました。それから、光太郎が姻戚の宮崎稔に村上忠敬著『全天星図』の入手を依頼したのも、流石だ、というお話でした。逆に、彗星や流星について、特に、明治44年(1911)のハレー彗星について書き残していないことを残念だとおっしゃってもいました。そのあたりは、今後、新たな文章などの発見があれば、と思っております。

最初に書いたとおり、大自然を愛した光太郎。その一環として天体の美にも反応したのでしょうが、宮沢賢治の影響もあるような気もしています。今後、賢治と光太郎の関わりについてしゃべる機会があれば、そういう話もしようと思っております。

午後9時頃、片付けも終わり、撤収。レンタカーをその日の宿・台温泉に向けました。

以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

山を見る先生の眼に山の叡智がうつる。 山は先生をかこんで立ち、 真に見るものの見る目をよろこぶ。
詩「先生山を見る」より 昭和14年(1939)
 光太郎57歳

「先生」は、光太郎より10歳年長、登山家の木暮理太郎です。2年後に光太郎の『智恵子抄』を上梓する龍星閣から刊行された、木暮の『山の憶ひ出』下巻に載った木暮の写真にインスパイアされて書かれた詩です。やはり大自然の美を愛するものとしてのアフィニティー、ということなのでしょう。
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光太郎、翌年には木暮の山姿の彫刻を作り始めますが、結局、完成しませんでした。