1泊2日の行程を終え、昨日、岩手から千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。5回ほどにわけてレポートいたします。

7/29(土)、最初に向かったのは、花巻市博物館さん。企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」拝見のためでした。

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左はチラシ、右は図録の表紙です。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

ところで、以前、このブログで等観について、「花巻(湯口村)に疎開していた」的なことを書きましたが、誤りでした。従来刊行されていた文献にそう書かれているものが多く、それを鵜呑みにしていました。正確には妻子を千葉に残しての単身赴任、といった感じだったようです。その期間が長かったのと、チベット将来の品々を疎開させたことから、地元でも「等観さんは花巻(湯口村)に疎開していた」と思いこんでいた人が多かったのこと。

さて、展示。ほとんどが、そのチベット将来の品々でした。最後に「等観と花巻」というコーナーが設けられ、光太郎から贈られたものが展示されていました。

まずは、昭和22年(1947)9月5日、光太郎が円万寺の等観の住まいを初めて訪れた際に揮毫した団扇。

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以前から写真では見ていましたが、実物は初めて拝見しました。それから、単なる渋団扇だろうと勝手に思い込んでいたところ、さにあらず。貼ってあるのはやはりチベットから持ち帰った紙だということでした。光太郎に続いて、元旧制花巻中学校長の佐藤昌も揮毫しています。佐藤は昭和20年(1945)8月10日、花巻空襲でそれまで滞在していた宮沢賢治の実家を焼け出された光太郎を、無事だった自宅に一時住まわせてくれていました。

それから、画像はありませんが、同じ時に光太郎が等観に贈った、草野心平編、鎌倉書房版の『高村光太郎詩集』。残念ながらその部分は見えませんでしたが、等観当ての識語署名が入っているとのことでした。

そしてもう一点、昭和24年(1949)1月5日に等観に宛てて書いた葉書。

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曰く、

拝啓、先日はお使ひにて八日にお招き下され、忝く、当日参上するのをたのしみに致し居りましたが、昨夜以来降雪となり、その降雪量次第で出かけにくくなるやも知れず、事によると不参になるとも考へられますので念の為め右一寸申上げます。なるべくなら出かけたいとは存じますが。

この前後の光太郎日記から。

十時頃観音山より例の老翁使に来り、八日に来訪され一泊されたしと多田等観さんの伝言を伝へらる。多分ゆけるならんと返事す。茶を入れる。(1月3日)

昨夜来雪。終日ふりつづき、一尺ほどつもる。(略)多田等観氏にハガキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる(1月5日)

観音山行を中止する。雪中歩行が一寸あぶなく感ぜられる。(1月8日)

午前多田等観氏来訪。近く東京にゆくにつき来訪の由。ゆけなかつた事を述べる。観音山の話、法隆寺の話、西蔵の話などいろいろ、(略)ひる餅をやき、磯焼にして御馳走する。午后一時半辞去。清酒一升もらふ。昨日一緒にのむつもりなりし由。(1月9日)

今回、葉書が展示されているという情報は事前に得ておりましたが、細かな日付などは不明でした。日記と照らし合わせると、おそらくこの時のものだろうと思っていましたところ、その通りでした。パズルのピースがかちっと嵌る感じで、こういうところが面白いところです。


その後、等観が単身赴任していた郊外旧湯口村の円万寺さんに。以前もここを訪れたことはありましたが、このブログではそのあたり、省略していました。

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以前に訪れた時は路線バスを使い、麓から徒歩で登りました。かなりの坂で、きつかったのを記憶しています。光太郎も「山の坂登り相当なり。汗になる。」と日記に書いていました。今回はレンタカーを借りていたため、すいすいと。光太郎先生、すみません(笑)。

それだけに、ここからの眺望はすばらしいものがあります。「イグネ」または「エグネ」と呼ばれる屋敷森がいい感じです。

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等観が起居していた草庵「一燈庵」。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に勝るとも劣らない粗末さです(笑)。扁額はレプリカのようで、本物は企画展に展示されていました。

その材となった「姥杉」。「尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。」と、光太郎日記にも記されています。

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こんな看板もありました。さすがに自然が豊かです。

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これだけはいただけませんが(笑)。

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遠き日、二人の巨魁の築いた友情に思いを馳せつつ、下山しました。

続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

最も低きに居て高きを見よう。 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。

詩「冬」より 昭和14年(1939) 光太郎57

同様の表現が、このあと頻出します。しかし、この境地に本当に達するのは、やはり戦後、花巻郊外旧太田村に隠遁してからのことになります。