昭和6年(1931)、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、8月9日から約1ヶ月、宮城から岩手の三陸海岸一帯を旅した事を記念し、毎年、女川光太郎祭が開催されています。こぢんまりと行うイベントで、ネット上に詳細情報等有りませんが、問い合わせた結果と昨年までの要項を参考にまとめると、以下の通りです。
第26回女川光太郎祭
期 日 : 2017年8月9日(水)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
内 容 :
献花
光太郎紀行文、詩などの朗読
講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑤―」
高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)
会場が昨年の女川フューチャーセンターCamassから、震災前、元々の会場だった海浜公園(上記地図でいうと「メモリアルゾーン」)に近い女川町まちなか交流館に変更になりました。やがてメモリアルゾーンの整備も終われば、ここにあった光太郎文学碑も再建され、そちらでの開催になると思います。その日も近いように思われます。
智恵子の故郷・福島二本松からは、智恵子の顕彰に携わるレモン会の皆さんが貸し切りバスでいらっしゃるそうです。しかし、残念ながら、今年は当会顧問・北川太一先生はご欠席だそうです。
今年で5回目となりますが、当方の講演が入ります。永続的に講演をし続けることになりそうなので、まず10年くらいは光太郎の一生を区切って俯瞰する方向でと考え、昭和22年(1947)に、それまでの人生を振り返って書かれた連作詩「暗愚小伝」の構成にしたがって進めており、今年は智恵子との出会いから結婚生活、そして死別のあたり――明治末から太平洋戦争直前くらい――を扱います。
ちょうどこの期間に、『時事新報』の依頼で三陸を廻っていますので、その辺も、と考えております。
そのために、その旅で光太郎が利用した三陸汽船の古文書を入手しました。大正15年(1926)ですから、光太郎が三陸を訪れた5年前に発行された、金子常光の手になる鳥瞰図をあしらった案内です。
ちなみにネットオークションに出品され、入札したのですが負けました。負けて「ちっ」と思っていたら、オークションではない、古書販売サイトに出品されているのを見つけ、オークションで負けた価格より安く手に入りました。捨てる神あれば拾う神あり、ですね(笑)。
広げると全幅90㌢ほど。南は塩竃から、北は宮古までのリアス式海岸が描かれています。
女川近辺を拡大すると、こうです。
裏面には汽船の利用案内や、各寄港地の説明などが書かれています。
これは三陸汽船について調べている中で知ったのですが、月2便の東京芝浦港との往復便がありました。それについても記述があります。最近、光太郎は、これを利用したのではないかと考えるようになりました。
時事新報に連載された「三陸廻り」は、石巻から宮古までの行程が書かれていますが、東京から石巻までと、宮古を出て東京への足取りが書かれていません。これまで何となくそれぞれ陸路だったのでは考えていましたが、往復とも船で済んでしまえばその方が楽だったはずです。当時は陸路にしても新幹線などありませんでしたし。
光太郎が三陸を廻るという話を聞いた、花巻の宮沢賢治は、花巻に会いに来てくれることを熱望していたそうですが、それは果たされませんでした。それも、月2便しかなかった船の便の都合、と考えれば、納得が行きます。
確証はありませんが、今後、そのあたりについて書いた書簡などが見つかれば面白いな、と思っております。
さて、女川光太郎祭、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
あなたはまだゐる其処にゐる あなたは万物となつて私に満ちる 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど あなたの愛は一切を無視して私をつつむ
詩「亡き人に」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳
翌年に書かれた散文「智恵子の半生」にも、同様の記述があります。
或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
この境地に至るまでの苦しみや辛さは想像するに余りあります。そして、この境地に達さなければやっていけなかったであろうということも。