一昨日、上野、渋谷と都内2ヶ所を廻っておりました。2回に分けてレポートいたします。
まずは上野の東京藝術大学美術館さんで開催中の、東京藝術大学創立130周年記念特別展 「藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」。
よくある単なる所蔵名品展ではなく、一ひねり、二ひねり、といった感じで、非常に興味深く拝見しました。
名品展的要素としてもかなりのもので、飛鳥時代に始まり、現代までビッグネームや逸品がずらり。さらに美術史上重要な位置づけのものも多く、「これって藝大さんで持っていたのか」「この人も藝大(東京美術学校)出身だったのか」と思わせられるものもけっこうありました。
光太郎の作品は、明治35年(1902)、彫刻科の卒業制作として作られた「獅子吼」。経巻をうち捨て、腕まくりして憤然と立つ日蓮をモチーフにしています。これまでも各地の企画展等でよく展示されていたブロンズと、今回は石膏像が並べて展示されていました。当方、この石膏原型は初めて拝見しました。
通常、塑像彫刻の場合、はじめに粘土で原型が作られます。そこから石膏で型を取り、さらに最終的にはそれをもとにブロンズなどで鋳造します。「獅子吼」は、2段階目の石膏の時点で、卒業制作として提出されました。此の時代、展覧会でも石膏原型の出品は珍しくありませんでした。
石膏とブロンズ、結局は同じなのですが、並べてみると、細かな点には相違が見られます。意識しての相違ではなく、自然とそうなってしまう、という部分です。どうしても、石膏からブロンズにうつす際、細かな部分は甘くなってしまうのです。全体にそうなのですが、それが如実に感じられたのが、足の指の部分。石膏では指の一本一本が細かく作られているのですが、ブロンズでは五本がつながって一体化してしまっているような……。もちろん五本指であることは見て取れますが、指と指の境目がゆるくなってしまっています。画像でお見せできないのが残念です。それから、台座に刻まれた「獅子吼」の文字なども、同様でした。となると、粘土から石膏にうつす際にも同じことが起きているような気もします。
このあたり、当方は実作はやらないので感覚
としてはよく分かりませんが、そうなることを考えて、最初の粘土での制作に当たるものなのでしょうか。専門の方のご意見を伺いたいものです。
さらに言うなら、石膏原型が残っておらず、鋳造されたものから型を取ってさらに鋳造した像も存在します。そうなると、最初の粘土像から比べると、細かな部分はおそろしく変わってしまっているものもあるように思われます。実際、光太郎のブロンズでもそうなんだろうな、と思われるものが展示されている場合があります。どこそこの館のどれどれが、とは申しませんが……。
となると、鋳造されたものより石膏像の方が粘土原型に近いわけで、光太郎の朋友・碌山荻原守衛の絶作「女」なども、重要文化財に指定されているのは実は石膏像です。
明治35年(1902)に、光太郎が卒業制作として提出したのも、今回展示されている石膏原型。そう考えると、感慨深いものがありました。
ちなみに光太郎は二席(第2位)でした。首席は水谷(みずのや)鉄也。のちに同校教授に就任しました。当会顧問・北川太一先生の御著書などには、「きれいな作風」とあり、どんなものだろうと思っていたのですが、水谷の卒業制作も出品されていました。題して「愛之泉」(右画像)。残念なことに石膏はもろいので、手などの末端部分に欠損が見られますが、たしかにきれいな作風だな、と思わせられるものでした。
しかし、これが「獅子吼」より完全に上か、というと、そうも思えません。まあ、このあたりは主観的な問題だと思いますが……。そこで浮かんだのが、最近はやりの「忖度」の語。彫刻科の主任教授は、光太郎の父・光雲だったわけで、その息子が首席では、たとえ技倆が伴っていたとしても「いかにも」ですね。そこで光太郎は二席、ということが考えられます。逆に、本来は五位、六位、もしかするとそれ以下の判定が二席、という「忖度」も無いとは言い切れませんが……。
余談になりますが、これら卒業制作が最初に出展された「東京美術学校生徒成績品展覧会」の図録では、「獅子吼」の画像の下にローマ字で「Kotarou Takamura」とクレジットが入っており、どうもこの頃から、本名の「みつたろう」ではなく「こうたろう」と名乗り始めたと考えられます。
ところで、石膏原型というと、光太郎最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型も、同館に収蔵されています。当方、こちらも見たことがありません。昨年暮れにATV青森テレビさんで放映された特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」」制作のお手伝いをさせていただいた際に、この石膏原型も取材してはどうかと提案したのですが、番組の尺の関係などで実現しませんでした。また藝大美術館さんで同じような企画展がある場合には、ぜひ出品していただきたいものです。
その他、光太郎・光雲と関わりの深い作家の作品も、かなり出品されていました。平櫛田中、白瀧幾之助、板谷波山、石川光明、米原雲海、藤田嗣治などなど。さらに過日もご紹介した、アーカイブ的な写真も興味深く拝見しました。
なかなか見応えのある企画展です。帙ふうのハードカバーがつけられた図録も立派なものです(1,800円)。来月6日までの会期。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
一切の苦難は心にめざめ 一切の悲嘆は身うちにかへる 智恵子狂ひて既に六年 生活の試練鬢髪為に白い
詩「或る日の記」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳
詩の冒頭部分では、大正2年(1913)、智恵子と一夏を過ごした上高地の風景を水墨画に描いた事が記されています。なぜこの時期に上高地の絵を、と、意外な感がします。詩が書かれた約1ヶ月後、智恵子は帰らぬ人となりました。もしかすると、その予感が既にあったのかも知れず、一種のレクイエムなのかもしれません。