最近、相次いで、訪欧された方々から、光太郎ゆかりの地の画像をいただきましたのでご紹介します。

まず、ロンドン。今年の連翹忌に初めてご参加下さった、千葉ご在住の安藤仁隆氏から。娘さんご夫婦がロンドンにお住まいだそうで、そちらに行かれた際に廻られたそうです。

光太郎は明治40年(1907)6月19日、1年あまりを過ごしたニューヨークを後に、大西洋を渡ってイギリスに向かいました。まだ航空旅客機は運用されてしておらず、利用したのはホワイトスターライン社の「「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)でした。ホワイトスターライン社は、この5年後に、かの有名な「タイタニック」を就航させます。「オーシャニック」は、そのタイタニックにつながる「スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような豪華大型客船」という画期的なコンセプトを初めて実現した船でした。クルーの何人かもかぶっています。

入港したサザンプトンからロンドンへ、ニューヨークで知り合い、先に渡英していた画家の白滝幾之助らの世話で、テムズ河畔パトニー地区の下宿に落ち着きます。

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安藤氏からいただいた(以下同じ)、テムズ川にかかるパトニー橋。

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その近くのカフェ。

光太郎が下宿していた建物が現存しているそうです。

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その後、移ったチェルシー地区の下宿。現在はインテリアのショールームになっているとのこと。ただ、往時のまま天井が高く、彫刻家のアトリエとしてうってつけだそうです。ここで白瀧幾之助と共同生活をしました。

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近くには、光太郎が学んだロンドン・スクール・オブ・アートの跡。3年前に廃校となり、今はマンションだそうです。ここで光太郎は、後に来日して陶芸家となるバーナード・リーチと知り合いました。

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ただ、当時のイギリスはパリと比べれば、芸術の先進性では遅れをとっており、スクール・オブ・アートではデッサンを学んだ程度で失望して退校、それなら英国人の文化や本当の生活を知ろうと、技芸学校ポリテクニックに移ります。それも現在はマンションに様変わりしているそうです。

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そして翌明治41年(1908)、留学の最終目的地と定めていたパリへと旅立ちます(もっとも、前年すでに下見を兼ねてパリにいた荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエに行ったりもしていました)。ちなみにこの年、ロンドンでは第4回オリンピックが開催されました。現代とは異なり、半年もの会期でした。

後年の回想から。

 私はロンドンの一年間で真のアングロサクソンの魂に触れたやうに思つた。実に厚みのある、頼りになる、悠々とした、物に驚かず、あわてない人間のよさを眼のあたり見た。そしていかにも「西洋」であるものを感じとつた。これはアメリカに居た時にはまるで感じなかつた一つの深い文化の特質であつた。私はそれに馴れ、そしてよいと思つた。(『父との関係』 昭和29年=1954)

光太郎は保守的な一面も持っており、一面軽薄なアメリカ文明とは異なる、格式ある「英国」のライフスタイルは、敬愛すべきものだったようです。農商務省海外実業練習生の資格を得て義務づけられた報告書「英国ニ於ケル応用彫刻ニ就イテ」(明治41年=1908)などにも、それが読み取れます。この点、同じくロンドンに留学しながら、彼の地でこっぴどく人種的劣等感を植え付けられた夏目漱石との相違は興味深いところです。


明日は、フランスへ行かれていたテルミン奏者の大西ようこさんによるパリの光太郎ゆかりの地訪問の様子からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

小人に詩無し ただあるは詩才のみ 君子に詩無し ただあるは明哲保身の言のみ 詩を培ふもの ただ聖と愚とあつて殆し

詩「詩について」 昭和12年(1937) 光太郎55歳

『論語』からのインスパイアですね。「小人」は『論語』のとおりの「小人」でしょう。しかし「君子」は真の意味の「君子」ではなく、アイロニーとしての「君子」でしょう。「誤解を招く表現であったなら撤回します」的な「明哲保身の言」をもてあそぶ、ある意味、賢い人々への痛烈な皮肉ですね。

真に詩をものするには、それらを突き抜けた神に近い「聖」までたどりつくか、それと真逆の「愚」に徹底するか、二者択一だ、というところでしょうか。晩年の光太郎はこの境地に至ったように思えますが、そうなるまでに、まだまだ長い苦闘、多大な犠牲が必要でした。