信州安曇野、碌山美術館さんの夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」を拝見して参りました。
光太郎関連以外の雑事で忙しいのと、高速道路の混雑を避けるため、一昨日の深夜に千葉の自宅兼事務所を出発、途中、塩尻の健康センターで入浴、仮眠。翌朝、碌山美術館さん開館時間に一番乗りいたしました。究極の雨男・光太郎に関わる企画展示ですので、予想通りに大雨でした(笑)。


本来、撮影禁止ですが、関係者ということで許可を頂きまして、宣伝させていただきます。
昨夏、同館で開催された、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」は、「特別企画展」ということで、第1展示棟、杜江館も使っての展示でしたが、今回は第2展示棟のみ。図録等も発行されていません。それでもなかなかに充実していました。

第2展示棟に入りますと、まず、よくある「ごあいさつ」。企画展としての趣旨が述べられています。

日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。
これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。
これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。
背面の大きな壁には、年譜。今年が歿後100年となるロダンその人のものと、日本におけるロダン受容の歴史に関してまとめられています。


会場内はパーテーションで二つに区切られており、奥の区画には光太郎、荻原守衛等の彫刻の実作が展示されています。

光太郎のものは、すべてブロンズで、左から「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「園田孝吉像」(同4年=1915)、「手」(同7年=1918)、「腕」(同)。いずれも光太郎が『ロダンの言葉』編訳に取り組んでいた頃の作です。

他に、ロダンに影響を受けた戸張孤雁、中原悌二郎の作も。

この首はまるで自由製作のやうであつて、モデル習作じみたところがない。モデルは生徒仲間によく知られてゐるイタリヤ人の若者で、多分このポーズも教室の合議できめたもので、彼の勝手にきめたものではなからうが、教室の習作にありがちな、いぢけたところがまるでなく、のびのびと自由に製作されて、作家の内部から必然的に出てきた作品に見え、あてがはれたポーズといふ感じがまるでないのにまづ驚いたのである。作風はロダンの影響がまざまざと見えるもので、面(めん)やモドレや粘土の扱ひ方までそつくりであるが、それが少しもただのまねごとには感ぜられず、彼自身の内部要求として強く確信を以て行はれてゐるので、そのロダンじみてゐることが苦にならなかつた。そしていかにも生き生きしてゐた。私も若い頃なので大に感動し、これを習作としてこはしてしまふのは実に惜しいから是非とも石膏にとるやうにと彼に極力すすめた。彼は近いうちに日本に帰るといふことだし、是非これは持つて帰るやうにとくり返し彼に語つた。実物大よりも少し大きいので厄介だらうが、必ずこの習作はこはさぬやうにとくどく念を押した。
(「荻原守衛―アトリエにて5―」 昭和29年=1954)
ということでした。
手前の区画には、ロダンその人の「鼻のつぶれた男」、そしてロダンの弟子、カミーユ・クローデルの「ロダン」。


どちらも同館で所蔵しているそうですが、常設展示はされていなかったものです。
それを取り囲むように、各種の文献。

光太郎の識語署名入り『ロダンの言葉』初版。

光太郎が暗記するほど読んだというカミーユ・モークレール著のロダン評伝などの洋書。このあたりは、当会顧問・北川太一先生の蔵書です。
正続『ロダンの言葉』のさまざまな版。同館所蔵のものや、学芸員氏の私物も並んでいるそうです。新しめのマイナーなものは当方がお貸ししました。


昭和4年(1929)に叢文閣から刊行された正続普及版がベストセラーとなり、舟越保武、柳原義達、佐藤忠良ら後進の彫刻家たちはこれを読んで彫刻の道を志しました。

『白樺』などの「ロダンの言葉」初出掲載誌、光太郎以外のロダン紹介文献なども。


右のブールデル著、関義訳『ロダン』(昭和18年=1943)は、光太郎の装幀。序文も光太郎が書いています。

壁にはロダンの言葉の抜粋も。
前日の夜まで大わらわで準備に当たられたそうですが、なかなか充実の展示でした。

隣接する第1展示棟には、『ロダンの言葉』と時期のずれた光太郎ブロンズの数々。少しずつ買い足され、かなりの点数になっています。
企画展は9月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
繭には糸口、存在には詩の発端。いたるところの即物即事に、この世の絲はひき切れない。
詩「寸言」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳
さかのぼること10年、「彫刻十個條」という散文では、「彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」と記しています。世の中のどんなものにも、その詩魂の発端をみつけられるものだ、ということでしょうか。
この「寸言」という詩、永らく初出掲載誌が不明でしたが、この年7月、東京農業大学農友会文芸部から発行の雑誌『土』第22号に掲載が確認できています。