定期購読しており、それぞれ光太郎に少しずつ触れて下さっている『月刊絵手紙』と、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』が相次いで届きました。
『月刊絵手紙』は、日本絵手紙協会さんの発行。前号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は詩「案内」(昭和24年=1949)を取り上げて下さっています。
光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する花巻高村光太郎記念館を管理運営する一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、太田村時代の光太郎スナップが背景にあしらわれています。
隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』は、裏表紙に連載「光太郎のレシピ」。こちらも花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するもの。こちらも連載二回目です。初回は「そば粉の焼きパン」でした。
今号は、「ホッケのトマトソース煮とヨモギご飯」。付け合わせに卵やジャガイモが添えられています。健康的で美味しそうです。
ただし、光太郎日記には細かなレシピまでは記載されていないので、あくまでこんな感じだっただろう、というものです。光太郎が食したトマトソースもおそらくは缶詰だったのではないかと思われますし、ホッケとヨモギご飯(日記では雑炊)は、それぞれ別の日に作っています。そのあたりは、日記の該当部分をきちんと掲載していますので、問題はないでしょう。
当方、週に一、二回(今夜もですが)、家族の夕食を作っており、参考にさせていただきます(笑)。
『月刊絵手紙』、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』、それぞれ定期購読で自宅に届けてもらうことが可能です。上記の各リンクから、ぜひどうぞ。
ところで、先述の通り、どちらも一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、記念館の宣伝にもつながるかと存じます。良い工夫ですね。全国の文学館さん、タウン誌的なものの編集発行に当たられている皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。
【折々のことば・光太郎】
バ ンブ ツイツセイニタテ」アヲキトウメイタイヲイチメンニクバ レ」イソゲ イソゲ ニンゲ ンカイニカマフナ
詩「五月のウナ電」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳
「ウナ電」は、緊急を要する電報、の意。電話が一般的でなかった明治大正昭和戦前を舞台としたドラマなどで「チチキトクスグ カヘレ(父、危篤。すぐ帰れ)」などと使われるあれです。
昔の電報はカタカナのみ。しかも濁点は一字とカウントされていました。そこで濁点のあとは一文字分のスペースが必ず入りました。
下は戦後の昭和27年(1952)、当時の盛岡短期大学美術工芸科の卒業式のために送られた光太郎からの電報です。「ウナ電」ではありませんが。
「五月のウナ電」は、宇宙のヘラクレス座から、地球の動植物にあてた電報、というシチュエーションで書かれています。上記を漢字仮名交じりの書き下し文にすれば、以下の通りでしょうか。
万物一斉に立て。青き透明体を一面に配れ。急げ。急げ。人間界に構ふな。
何となくですが、宮沢賢治の詩や童話からのインスパイアのような気もします。