一昨日の朝、宿泊させていただいた青根温泉湯元不忘閣さんを後に、愛車を北へ向けました。メインの目的である仙台での朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」が午後3時開演。リハーサルや会場準備、チラシ折り込み等があるので昼頃には会場入りと思っていましたが、それにしても時間があったため、寄り道をしました(当初からそのつもりでしたが)。
行った先は、仙台からほど近い松島の瑞巌寺さん。こちらには、昭和2年(1927)、光太郎の父・高村光雲作の観音像が納められています。下の画像は古絵葉書です。瑞巌寺さんには30年ほど前に参拝いたしましたが、その際には存じませんで、見落としていました。
納められているのは庫裡。こちら自体も国宝の建築です。
光雲作としては類例があまり多くない、彩色彫刻です。おそらく丈六(約4.8㍍)の大きなもので、そうなると白木では見栄えがしないかもしれません。鮮やかな彩色が、神々しさをさらに倍加させています。
説明板によれば、元々は現JR仙石線が宮城電鉄だった頃、松島まで路線が延引された際に、無事故と事業の発展を祈願して同線の駅近くに奉納されたものだそうです。ということは、発願主は宮城電鉄さんだったのでしょうか。
この地の平安と、道中安全を祈願して参りました。
庫裡の向かいが宝物館となっており、まだ時間もありましたので、拝観。青根温泉不忘閣さん同様、やはり地元の英雄・伊達一族に関するお宝、それから円空仏なども展示されており、興味深く拝見しました。
さて、再び愛車を駆って仙台へ。途中で昼食を摂ったり、お二人への花束を買ったりしつつ、正午過ぎには青葉区のJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さんに到着しました。こちらは一昨年、やはり荒井さんのご出演なさった「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」以来、2年ぶり2回目です。
ちょうど機材のセッティングが終わってリハーサルが始まるところでした。
当方が持参した光太郎の遺影(連翹忌でも使わせていただいている、令甥の写真家、故・髙村規氏撮影のもので、ほとんど唯一、光太郎が笑顔の写真)、智恵子紙絵の複製などを並べさせていただきました。
その後、チラシの折り込みなどをお手伝いし、午後2時半、開場。当会と共に後援に入って下さった花巻高村光太郎記念会さんから、生前の光太郎をご存じの浅沼隆さん、さらに智恵子の故郷・福島二本松で顕彰活動を進められている智恵子のまち夢くらぶの野里氏もはるばる駆けつけて下さいました。
開演は午後3時。
休憩を挟んで1時間半ほどだったでしょうか。大西さんの奏でる古今東西の名曲に乗せ、荒井さんによる光太郎詩文等の朗読。テルミンの一種幽玄な響きと、荒井さんのしっとり落ち着いた美しいお声が絶妙にもつれ合い、絡み合い、美しくも悲しい、しかし最後は再生へと向かう光太郎智恵子の愛の世界を醸し出していました。
全体の構成や、合間にはMCも入り、飽きさせない工夫が為されていました。テルミンを見るのも聴くのも初めて、という方が多数いらっしゃいましたので、大西さんお得意のテルミン講座。さらにはお二人のなれ初め(笑)についてのお話などなど。お二人が初めて会われたのが、昨年の連翹忌。ビュッフェ形式で料理が並ぶうちの、ケーキのコーナーだったそうです(笑)。「天才は天才を知る」ということでしょうか(笑)、お互いに「ただ者ではない」と感じられたそうで、たちまち意気投合、これまでもちょこちょことコラボをなさり、今回が初めてのきちんとした公演でした。
午後の部がつつがなく終わり、楽屋でおにぎりなどを頂いて軽く腹ごしらえ。そして7時から夜の部でした。
当方、リハーサルを含めて結局3回聴いたことになりますが、お二人のパフォーマンスがそれぞれにすばらしく、もちろん光太郎の詩文の魅力もあって、まったく飽きることもなく、どっぷりと光太郎智恵子の世界に浸らせていただきました。
午後の部と夜の部の合間、それから終演後に拝読したご来場の皆様が書いて下さったアンケートでも、絶賛の嵐でした。再演を希望する声も多く、是非実現して欲しいものです。
終演後、お二人と、大西さんのご主人(ラブラブご夫婦で、いつもご主人がご一緒です)、そして当方の4人で夜の仙台の街に繰り出し、打ち上げ。日付が変わる頃まで大いに盛り上がりました。
連翹忌が取り持つご縁でこうしたイベントとなり、望外の喜びです。これまでも、こうしたパフォーマーの方々のコラボ、美術館・文学館さんと関連行事の講演会講師、出版関係者の方々と執筆者の皆さん、顕彰団体さんと視察研修先の方々などを結びつける役割を果たして参りましたが、こういうネットワークを広げることも大事な役割と考えております。
この輪をもっともっと広げたいと存じます。さらに多くの方々に連翹忌へご参加いただき、こうしたネットワークに関わっていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
さわぐには及びません やる事をやりなさい 威張るには及びません 頭をはつきり持ちなさい
詩「ゆつくり急がう」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳
詩全体には、昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、約1ヶ月、宮城から岩手の三陸沿岸を旅した経験が背景にあります。
この旅行に出ている間に、智恵子の心の病が顕在化したということになっています。光太郎の留守中に訪ねてきた智恵子の母や妹が、智恵子の異状に気づいたそうです。となると、第三者の目による異状顕在化であって、もしかするとそれ以前から症状は現れていたかも知れません。詩人の深尾須磨子あたりはかなり早い時期から智恵子の言動に違和感を覚えていました。
そしてどうもこの時期の光太郎は智恵子の状態を楽観視していたようで、そのあたりが「さわぐには及びません やる事をやりなさい」にも反映されているような気もします。
さすがに翌年に智恵子が自殺未遂を図ると、そうも言っていられなくなりますが……。その結果、青根温泉などへの湯治の旅に結びつくのです。