一昨日の『東京新聞』さん、埼玉版に載った記事です。

<ひと物語>新たな木彫 今を刻む 彫刻師・宮本裕太さん

003 小鹿野町長留の山あいにある工房。彫刻師の宮本裕太さん(30)は、真剣な面持ちで木彫作品二点の仕上がりを確認する。一つは南国の花プルメリア、もうひとつは観葉植物のモンステラとパイナップルの実がモチーフだ。

 いずれも縦四十六センチ、横幅百六十センチ。人の背丈ほどの大きな壁掛け。「ハワイの別荘向けに」と、東京在住の米国人と日本人の夫婦から注文を受けた。これまで手掛けてきた大黒天の座像やフクロウの置物とはだいぶ趣が異なる。

 「今回の壁掛けは洋間に飾るということもあり、デザインを工夫してみた。こうした作品がこれからのニーズなのかも」。宮本さんは確かな手応えを感じ取った。

 宮本さんが彫刻に関心を持ったのは中学生のとき。テレビ番組で彫刻家高村光太郎の作品「鯰(なまず)」を目にしたのがきっかけだ。「表情がとってもいきいきしている」。将来に向けた明確な目標を決められなかった宮本さんの頭に、彫刻師の道が浮かんだ。

 インターネットで情報を収集し、高校卒業後に富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんに弟子入りした。南砺市は精緻な作風で名高い「井波彫刻」のお膝元。そこかしこが彫刻作品に彩られた工芸の町だ。六年間、師匠方に住み込み修業に打ち込んだ。「とにかく経験を積むよう諭された」。独立したのは二〇一一年のことだ。

 木彫はさまざまな工程の積み重ねだ。図案や寸法を決めて、糸のこぎりで大まかな形を切り抜く。のみで形を整えて、小道具や彫刻刀で仕上げる。途中、何度も木を乾燥させる必要があり、数年がかりで取り組む作品もある。

 注文の多くはインターネット経由だ。住宅事情を反映してか、かもいを飾る「欄間」は減り、ウサギやネコの置物や植物のレリーフなどが好まれる。依頼主は主に関東から九州まで。東日本大震災の津波で流されたとして、宮城県の寺からはりを飾る作品のオーダーを受けたこともある。

 宮本さんがいま気に掛けているのは、木彫技術の担い手が少なくなっていること。弟子入りする若者が減っているほか、せっかく独立しても彫刻を断念してしまう人もいる。自ら若手を育成したいとの思いも募る。

 「後継者が少なくなっているからこそ、魅力的な作品が必要。大きな壁掛けや洋風の洒脱(しゃだつ)なデザインなど、いろいろと挑戦していきたい」と見通しを語る。 (出来田敬司)

<みやもと・ゆうた> 小鹿野町生まれ。町立長若中を経て、県立秩父農工科学高電子機械科卒。富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんのもとで木彫を習得する。2011年から小鹿野町内で「宮本彫刻」を主宰し、欄間、壁掛け、祭礼用品などを手掛ける。問い合わせ先は宮本彫刻=電0494(75)2276=へ。


現代の若手木彫家の紹介です。なんとまあ、この世界に入ったきっかけが、中学生の時に光太郎の木彫「鯰」をテレビ番組で見たことだそうで、驚きです。

現在30歳の方が中学生だったときで、光太郎の木彫「鯰」……おそらく、テレビ東京さん系の長寿番組「美の巨人たち」でしょう。平成13年(2001)の7月21日に、「鯰」がメインで取り上げられました。

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この番組では、光太郎をメインに扱ったのは3回あり、その最初のものでした(ブロンズ「手」が平成19年=2007、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が平成23年=2011)。

光太郎の簡単な評伝的部分もありました。海外留学でロダンをはじめとする「本物」を見てしまったがゆえの、父・高村光雲との葛藤……。

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幼い頃から光雲に叩き込まれた木彫と、西洋で学んだ塑像彫刻のエスキスとの融合をはからんとする苦闘。その中で「鯰」が生まれたこと、そのために智恵子との生活が犠牲にされたことなど。

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放映当時、神奈川県立近代美術館長だった酒井忠康氏、平成26年(2014)に亡くなった、故・髙村規氏などもコメンテーターとしてご出演なさっていました。

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久しぶりに録画を見返してみましたが、いい作りでした。それにしても、これを見て彫刻家を志した方がいらっしゃるとは、少し驚きました。昨日のこのブログで、昔の美術家の卵は、光太郎編訳の『ロダンの言葉』を読んで美術家を志したと書きましたが、現代は美術番組を見て、というのがあるのですね。当方も時折テレビの仕事のお手伝いをさせていただいていますが、責任重大だな、と思いました。

それにしても、記事にある宮本さん、注文の多くはネット経由だそうで、こういうところにも時代の変化を感じます。

今後とも、光太郎の魂を受け継いでのさらなるご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て 一片の弧線をも見落さないやうに写生する このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全実歴を記録する 九十一歳の鯰よ わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

詩「似顔」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ここにも「鯰」が登場しますが、ここで作っているのは魚の鯰ではなく、鯰のようにグロテスクな人物――戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した大倉喜八郎――の肖像です。少し前のこのコーナーで、大正11年(1922)の「信濃川朝鮮人虐殺事件」をちらっと紹介しましたが、この事件の加害者も被害者も大倉組の関係者でした。この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎にとって、大倉などは不倶戴天の敵です。

それがどうして肖像彫刻を作るはめになったかというと、間に光雲が介在しています。大倉は自身と妻の肖像彫刻を光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

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左が光太郎の原型から取ったブロンズ、右が光雲の彫った木彫の大倉像です。

光雲の手にかかると、ロダンから学んだ光太郎の荒々しいタッチも影を潜め、大倉の表情も好々爺然としてしまっていますね。まさしく今大流行の「忖度」です(笑)。

光太郎としては、それがまた気に入りません。しかし、光雲の下職仕事は大切な収入源でもあり、廻してくれる光雲の親心も痛いほどわかります。

生きていくことのつらさがにじみ出ているエピソードですね。