出版社コールサック社さんから、季刊詩誌『コールサック』の第90号が届きました。昨年の連翹忌に主幹の鈴木比佐雄氏がご参加下さり、そのご縁から毎号送って下さっています。恐縮です。
その上、毎号のように光太郎に触れて下さっていて、その点でも恐縮です。3月に発行された第89号では、光太郎と交流のあった山梨出身の詩人・野澤一(明37=1904~昭20=1945)のご子息で、連翹忌ご常連の野澤俊之氏が、父君に関するエッセイを寄せられていました。題して「神秘の湖〝四尾連湖〟に寄せる思い」。
今号では、野澤一の詩、9篇が掲載されています。すべて野澤生前唯一の詩集『木葉童子詩経』から選ばれています。そして野澤のプロフィールの中で、光太郎に触れられています。
『木葉童子詩経』は、昭和9年(1934)、6年間にわたる山梨県四尾連湖畔に丸太小屋を建てての独居自炊の様子を謳ったもので、光太郎にも贈られました。
光太郎から野澤への礼状が遺っています。
啓上 “木葉童子詩経”一巻今日拝受、 忝く存じます、
以前原稿の御送附をうけてそれぎりになつてゐた事を思ひ出しました、其時は丁度妻が危篤状態の際で一切を放擲してゐた時でした、
妻の病気はまだ続いてゐますが 今は読書の余裕も出来ました、早速拝読します、
日付は昭和9年(1934)4月25日。智恵子の心の病がのっぴきならなくなり、千葉九十九里浜に転居していた智恵子の母・センと、妹・節子一家のもとに智恵子を預ける直前です。
「危篤状態」云々は、昭和7年(1932)、睡眠薬アダリンを大量に服用しての、智恵子の自殺未遂を指します。
その後、野澤は昭和14年(1939)から翌年にかけてと、死の直前に、光太郎にあてて近況報告やらその時々の思いやらを綴った書簡を実に数百通、ほとんど一方的に送り続けました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。
そのエネルギーに押されてか、光太郎は、随筆「某月某日」(昭和15年=1940)中で、野澤をして次のように評しています。
二百通に及ぶこの人の封書を前にして私は胸せまる思がする。そしてこれこそ私にとつての大竜の訪れであると考へる。私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。
『木葉童子詩経』は、昭和51年(1976)と、平成17年(2005・右画像)に、文治堂書店さんから再刊されています。
一昨日のこのブログで、文治堂書店さん創業者の渡辺文治氏の訃報を書きまして、その中で、当会顧問の北川太一先生の「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すという同氏の姿勢に受けた感銘を紹介いたしました。こう言っては失礼ですが、この『木葉童子詩経』もその一冊といえそうです。
さらにはこうした無名詩人を毎号取り上げる『コールサック』も、社は違えど、同じにおいを感じます。
それぞれ出版文化の継承という意味でも、意義のある仕事です。継続していただきたく存じます。そして願わくは、「売れそうもない」という状態でなくなることを、と思います。
【折々のことば・光太郎】
うそは決してつくまい、 正しい人にならう、真理を究めよう、 すなほに、やさしく、のびのびと、 朝日のやうにいきいきと進まう。
詩「春の一年生」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳
光太郎の手元に残された草稿に「冨山房教科書一年生用のために」とのメモ書きがあります。
以前にも書きましたが、「一年生」といっても、冒頭近くに「小学校はもう昔」とあるので、小学一年生ではなく、小学校卒業後に進む、旧制中学校(5年制)や高等女学校などの一年生でしょう。
ただ、この詩が載った当時の教科書がまだ確認できていません。情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。
それにしても、昨今話題の「もりかけ問題」(蕎麦は関係ありません(笑))関係者に朗読させてみたいものです(笑)。