光太郎関連のさまざまな出版物を刊行して下さっている、東京杉並の文治堂書店さん。そちらの創業者・渡辺文治氏が先月、亡くなったそうです。
当方、直接面識はありませんでしたので、すぐに知らせが来なかったのですが、昨日、別件で同社から届いた書簡にその旨の記述と、葬儀の際の会葬御礼が同封されていました。



氏の業績、人となりのご紹介のため、抜粋します。
文治さんがはじめて応接間とも書斎とも書庫とも物置ともつかぬ、机一つないわが家の四畳半にやって来て、窮屈そうに坐ったのは、あれはいつのことだったろう。
ずっとガリ版で出し続けていた『光太郎資料』が二十冊あまりになったのを、詩の輪読会のメンバーの一人、日大法学部の田鍋幸信さんが見て、文治さんに話したらしい。文治さんのことは、僕の大好きな中島敦の、立派な四冊の本の出版社として知っていた。本は飛び切り上等だったけれど、社長と社長夫人しかいないその出版社の実情は、例えば小説「シュロ竹」を見よ。文治さんの本屋さんだから、糞真面目に文治堂というのも良いではないか。
目の前にいる文治さんは、活字で『光太郎資料』出しましょう、という。好男子なのに風采決して陸離とは言えない。低い声でぼそぼそ話す文治さんの、思い切りのいい決断。文治さんはいったい何を考えているのだろう。
その本が文治さんの目にかなったとしても、売れる筈のないそんな本を、出す出版社はおそらくない。半分あきれかえりながら、僕はこの降って涌いた計画に熱中した。しかもあろうことか、六冊の無鉄砲なシリーズは、昭和五十二年に五年かかって完結した。

第四集から第六集までは、諸家による光太郎智恵子の同時代評、回想、そして第一~三集のさらに補遺。こちらも貴重な資料集成です。
これで北川先生と同社との関わりが出来、以後、光太郎関連の出版物等が同社から刊行されたり、同社発行の雑誌に先生の玉稿が載ったりしました。画像の広告にある光太郎デッサン「裸婦」複製などもその一環です。
再び北川先生の玉稿から。
その間にも感じたことは、このやさしく、声高に語らぬ人が、強情我慢な一面もあり、ことに自分の美意識や語感にかけてはゆずらないこと。ふと作家論などを始めると、思いもかけず熱っぽい、頑強な評論家に豹変すること。「五万円もあれば暮らせますよ」という何気ない文治さんの言葉にも、この人は決して、商売の出版屋にはなれないだろうな、と思いながら、いささか古めかしいけれど、われら同世代には通じるに違いないこの人の、「志」を僕は感じはじめていた。そしてその文治さんの「志」をつつむ文治さんの家の、奥さんや息子さんのなんとも言えぬ温かさも。
雑誌としては、『蝉』、『近代詩研究―詩と音楽―』といったあたりに、北川先生の玉稿が載りました。『高村光太郎資料』を補う、光太郎の評伝「高村光太郎伝試稿」。こちらは掲載誌や形態を変えつつ、現在は高村光太郎研究会さん発行の雑誌『高村光太郎研究』誌上で続いています。


『資料』の最後の巻がまだ出来上がらない頃、文治さんは文治堂のPR誌を作るという。僕は長い間地面の中でいのちを養い、或る日与えられた短い時を力いっぱい歌いあげる『蝉』という名を提案し、それは文治さんに採用された。第一号が陽の目を見たのは、ちょうど鳴きしきる蝉の季節、昭和五十年七月のことだったけれど、出来上がったのは、とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある文芸誌だった。
その中で、渡辺氏は「谷川清二」の筆名で、私小説風の一篇を発表し、出版者と小説家の二足のわらじの活動が始まりました。
文治さんは相変わらず、惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出したが、清二さんの小説も次々に生まれた。それは読む者をよろこばせ、或いはさまざまな感慨に誘った。はじめの頃の軽妙に人間の機微を描いた作品は、それぞれのやり方で僕等が歩いて来た、戦中戦後の重い人生への反芻にひろがり、今を覆い、一転して古代に託した力強い人間説話ともなった。
平成のはじめ頃には引退され、現社主の勝畑耕一氏に引き継がれたようで、おそらく引用した北川先生の玉稿は、引退記念のはなむけなのではと思われます。
勝畑氏に委譲された同社、その後も「惚れ込んだ売れそうもない良い本を、少しずつ世に送り出」すというコンセプトは受け継がれ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな良書が刊行されています。また、「とうていPRになろうとも思えぬ、薄いけれども硬玉のような、読み応えのある」PR誌も、昨年、『トンボ』として復活。書かせてくれと言った覚えは全くないのですが(笑)、当方も半ば強引に執筆陣に加えられ、さらに来月発行の次号からは、連載も始まります。
その渡辺氏の訃報。気骨と良心のある出版者がまた一人、旅立たれました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
ちよこまかとして戦ひ獲るのが如何に君の周囲の流行でも、 私はもう一度古風に繰返さう。 ――正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。――
詩「或る親しき友の親しき言葉に答ふ」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳
光太郎詩には珍しく、他の詩に書かれた詩句を引用しています。すなわち終末の「正しい原因に生きる事、 それのみが浄い。」が、大正15年(1926)に書かれた「火星が出てゐる」からの転用です。
故・渡辺氏などもそういった考えから、「周囲の流行」に背を向け、数々の良書を世に送り出していたのでしょう。
虎の威を借る狐よろしく、「官邸の最高レベルが言っている」などと圧力をかけたり、「忖度」を駆使したりして、国有地や学部新設の権利などを、「ちよこまかとして戦ひ獲る」輩、それを許したり、斡旋したりしている輩に贈りたい言葉ですね(笑)。