仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。今週月曜日の夕刊に掲載のコラム「河北抄」で光太郎の名が。

河北抄 2017年06月05日月曜日

 満天の星に吸い込まれた。先日、福島県大玉村の実家に帰り、見上げた夜空に心がすっとした。安達太良山の麓。高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「ほんとの空」は、夜もまた格別だ。
 6年前、激震が襲った日の仙台の夜空も、きれいだった。停電で不安と闇に沈む中心部。華やかなネオンに隠れていた輝きが、こんなにあったとは。
 「何もない非日常がいい」。青森市出身の館美里さん(24)は、あまり活用されていない福島県三島町の美坂高原で星空に魅せられた。地域おこし協力隊として町に移住した若い仲間と24日夜、「みさかDEあそぼ 星空×ヨガ」を催す。
 星を仰ぎ心身を癒やす星空ヨガ。提唱する三島町出身で郡山、仙台で活動するヨガ講師大竹沙紀さん(26)は「五感で星の鼓動を感じ、自分らしさを見つめてほしい」と。人にも個々の輝きがある。人口減、高齢化が著しい奥会津の小さな町だが、見方を変えればきらりと光る。
 仙台のビル街も、たまには明かりを消し、屋上で夜空を眺めてヨガ-実現できたら、どんなにすてきだろうなあ。


単に福島の空が美しい、だけでなく、「ほんとの空」を引いて下さり、ありがたいところです。

今後、梅雨が明けると夏の星座のシーズンですね。都会では夜も明るすぎ、星の観察には不向きですが、コラムにある大玉村や三島町(奥会津です)あたりでは、さぞ美しい星空が見えるような気がします。

郡山市ふれあい科学館さんで開催されていた第4回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト 作品展を、去年の今頃、拝見したことを思い出しました。「 “ほんとの空” のある、ふくしまの星・月の風景」というコピーが使われていました。コンテストはは昨年の第4回で終了してしまったようで、残念です。

追記:「ふくしま星・月の風景フォトコンテスト」、間があきましたが復活しました。

もう一つ思い出したのが、昨年、「“ほんとの空”から追い求めた夢の結実」と報道された、最高時速370キロのプロペラ飛行機によるレース「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」。先週末に千葉県立幕張海浜公園で開催された第3戦で、昨年に続き、福島を本拠に活動されている室屋義秀選手が2連覇を達成されました。すばらしいですね。

そうかと思えば、「河北抄」でも触れられていた東日本大震災、そして原発の事故がらみも報道され、あきれています。ようやく福井県の「もんじゅ」廃炉が決まったと思ったら、使用済み燃料の行き場がないとか、茨城では重大な被曝事故が発生しているにもかかわらず、「もんじゅ」の福井では高浜原発3号機が運転差し止めの仮処分がくつがえされて再稼働とか……。「営業運転に入れば、電気料金を値下げする」だそうで、こういうのをまさに「朝三暮四」というのだと思います。いいかげん目を覚ませと言いたくなりますが、トンデモ大臣のお膝元ですのでしかたがないのかもしれません。

ところで、「原発」、「ほんとの空」といえば、2012(平成24年)、兵庫県人権啓発協会さん制作のビデオドラマ「ほんとの空」。劇中に光太郎の詩「あどけない話」が使われ、このブログでも何度かご紹介してきました。昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で、主人公・真田信繁(幸村)の長男・大助を演じた浦上晟周さんも出演しています。

明日、福岡市の高取公民館で上映されます。

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「原発いじめ」問題もあった昨今、その問題も扱っているこの「ほんとの空」、もっと上映が広がってほしいものです。


最後は星空関連の明るい話題で。

戦後の7年間、光太郎が暮らした岩手県花巻郊外旧太田村。光太郎が暮らしていた昭和20年代は、まさしく星降る夜だったようで、当時書かれた随筆や日記に、天体に関する記述がたくさん見受けられます。そんな縁もあり、先日もちらっとご紹介しましたが、花巻高村記念館さんの講座的に、記念館・山荘周辺で星座観察会を催すことになりました。7月29日の夜です。花巻市さんも共催に入って下さり、当方もゲストにお招きいただきました。詳細が決まりましたらまた改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

さういふ道とはまるで違つた道があるのだ さういふ図形にまるで嵌らない図形があるのだ

詩「激動するもの」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「原子力村」の論理を振りかざす輩に贈ります(笑)。

ところで、「激動するもの」という詩、扱いに困る詩です。この詩が収められた『高村光太郎全集』増補改訂版第2巻刊行の平成6年(1994)時点でも初出掲載誌が不詳でした。また、光太郎の生前に刊行されたどの詩集にも掲載されませんでした。そこで、『全集』では光太郎の手元に残された草稿に記された形を採録しています。

その後、山梨県で自費出版的に刊行されていた雑誌『線』の第4号(昭和5年=1930)に初出だったことがわかり、掲載誌も見ることが出来ました。しかし、草稿と異なる箇所が二カ所。引用した部分、草稿で「さういふ道とは」が、『線』では「さういふ道と」、終末近くで同じく「微塵の中」が「微塵のうち」となっています。

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雑誌『線』掲載の段階で、光太郎がゲラ等の確認をきちんとしていたのであれば、掲載誌のとおりですが、そうでなければ誤植です。どちらなのか、現段階では不明です。

この点に関わる随筆、書簡などが新たに見つかれば、この問題も一気に解決します。実際、一つの随筆、書簡の新たな発見で、それまで不明だったことが分かった例はたくさんあり、今後に期待したいところです。