先週土曜日の『朝日新聞』さんの土曜版。不定期に掲載される芥川賞作家の又吉直樹さんによる文学散歩的なコーナー「又吉直樹のいつか見る風景」。ちらりと光太郎の名を出して下さいました。
又吉直樹のいつか見る風景 日本橋から船に乗る(東京都中央区ほか)

先日、そこから舟に乗った。「日本橋川」の上は高速道路が走るため、空はよく見えない。出発してすぐに鎧(よろい)橋がある。明治末、「パンの会」という新しい芸術の精神を持った若者(木下杢太郎、北原白秋、高村光太郎など)が集まったカフェ「メゾン鴻の巣」が近くにあった。
沿岸の建物のほとんどは川に背を向けていて、非常階段で喫煙している人の脱力した表情が印象に残った。かつては江戸城まで物資を運搬する水路だったが、現在は日常の裏側なのかもしれない。ところが、「隅田川」に出ると一気に視界がひらけて爽快だった。
(略)
東京都心の川を、小型の船(舟)でめぐるクルーズが、いま人気だ。神田川の支流、日本橋川にかかる日本橋の船着き場からは、土日ともなると、多くの乗り合い便が発着している。
今回は、船をチャーターし、NPO法人水都東京を創る会(suito.or.jp)のガイドで、江戸から近代にかけ、流域で花開いた文学活動の残り香を訪ねる旅、と決め込んだ。江戸橋、鎧橋と下り、隅田川へ出て、江戸入りした徳川家康が、日本橋川とともに造成した「塩の道」の小名木川へ。河口の万年橋の近くには、現在も芭蕉記念館が。扇橋閘門の先で折り返し、もと来た川を戻り、佃島を望みながら亀島川から再び日本橋川へ。約90分の旅だった。

長いので省略しましたが、日本橋から扇橋までの船旅のレポートになっています。
日本橋から下流に向かうと、すぐ江戸橋、続いて鎧橋です。レポートにあるとおり、鎧橋際には、西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」がかつてあって、北原白秋、木下杢太郎らが始めた芸術運動「パンの会」の会場として使われていました。明治42年(1909)、欧米留学から帰った光太郎もたちまちその渦に巻き込まれ、気焔を上げています。


明治43年(1910)11月20日、日本橋の三州屋で行われた大会では、劇作家・詩人の 長田秀雄の入営壮行会を兼ねたものでしたが、会場に掲げられた「祝長田君・柳君入営」 の貼り紙――幟(のぼり)という説もあり――に、光太郎が黒枠を描き込んだため、「萬朝報」に取り上げられ、徴兵制度を非難する非国民の会と糾弾されました。翌月に大逆事件の大審院第一回公判を控えていた時期であり、当局も過敏でした。
さらに同日、実際にはやりませんでしたが、吉原河内楼の娼妓・若太夫をめぐって、作家の木村荘太(画家・荘八の兄)と決闘騒ぎになりかけたりもしています。
さて、又吉さんのクルーズ。船をチャーターしてのものだったそうですが、いくつもの会社がクルーズ船を運行しています。チャーター便、その場で直接申し込む乗り合い便、一人でもOKというものもあります。
これまでもテレビの旅番組的なもので取り上げられており、レポーターの皆さん、一様に川から東京の街並みを観る新鮮さに驚きの声を上げていました。
機会を見つけて利用してみたいものです。皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
星が一つ西の空に光り出して 天が今宵こそ木犀色に匂ひ 往来にさらさら風が流れて 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる さういふ秋がやつて来たんだ
詩「秋が来たんだ」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳
関東は昨日梅雨入りだというのに、季節外れですみません(笑)。以前にも書きましたが、このコーナー、『高村光太郎全集』からほぼ掲載順に言葉を探していますので、こういうことも起こります。
どちらかというと、光太郎は「述志」の詩人と捉えられがちで、力強く自己の内面を表出した作品が多いのは確かです。
しかし、それにとどまらず、こうした何気ない詩句の中に、非常に美しい自然の描写などがあり、これもまた一つの光太郎詩の魅力です。