若年性アルツハイマーを発症した夫人(八重子さん)の介護を描き、平成14年(2002)に出版されて「現代の智恵子抄」と称された陽(みなみ)信孝氏著『八重子のハミング』。昨秋、映画化され、物語の舞台の山口県での先行公開を経て、先月、全国で封切られました。
生活圏ではありませんが、車で1時間ほどの佐倉市で上映されているので、そちらで拝見して参りました。考えさせられる映画でした。
八重子さん役の高橋洋子さんの鬼気迫る演技、とまどいつつも八重子さんを支える、陽氏をモデルとした誠吾役の升毅さんはじめ、周囲の人々の役作りなどなど、再現でなくドキュメントと見まごうほどでした。
徐々に認知機能を失い、お嬢さんの結婚披露宴だというのに、状況が把握できず、しかし美しい花束には素直に喜ぶ八重子さん。
お孫さんよりも幼くなってしまっている八重子さん。そしてかいがいしく食事の世話をするお孫さん。
実際の八重子さんが好きだったという、萩市笠山の椿の群生林。
そのシーンの画像が手に入れられませんでしたが、八重子さんが寝静まった深更、誠吾が龍星閣戦後版、赤い表紙の『智恵子抄』を手に取る場面がありました。そこで誠吾の目にとまっていたのは、「値ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)。
智恵子は見ないものを見、
聞こえないものを聞く。
聞こえないものを聞く。
智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。
出来ないことを為る。
智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。
わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。
智恵子はもう人間界の切符を持たない。
しかし、光太郎がある意味「智恵子はもう人間界の切符を持たない」と切り捨てたのに対し、誠吾(陽氏)の場合、最期まで奥様の尊厳を認め、護ろうとしたことに感動しました。
娘さんが「お母さん、しっかりしてよ!」と、ぐだぐだになってしまった八重子さんにくってかかると、誠吾は娘さんを平手打ちにし、「俺を責めるのはいい。だが、母さんを侮辱するのは許さん」と、毅然として言い放つシーンがありました。
時代や家族構成など、いろいろな差異はありますが、こういう点で光太郎は智恵子や周囲に対し、どうに対応していたのだろうかと、改めて思いました。
もっとも、自分がその立場になったら、ましてや、そうされる立場に……というのは、想像できません……。それではいけないのでしょうが……。
帰宅後、購入してきた公式パンフレットで、佐々部清監督の書かれた部分読み、さらに感動させられました。
当初はビッグネームの監督と脚本家で大手映画会社が映画化に向けて動いていたものの、撤退。それなら俺がやろうと、出来上がった脚本を持って他の会社やテレビ局の映画部などを回ったものの「地味すぎる」「中高年が主役では若い人が観に来ない」などの理由で相手にされず……。しかし、地元自治体、企業などを説き伏せて制作費を捻出。通常と比べれば遙かに低予算だったものの、心意気に賛同した役者さんやスタッフさんが手弁当に近い状態で集まってくれ(特に榎木医師役の梅沢富美男さんはご自分から出させてくれ、とおっしゃって来たそうです)、実現したとのこと。
「これって「本宮方式」じゃん」と思いました。「本宮方式」――昭和40年(1965)、吉村公三郎監督作品「こころの山脈」で採用された、資金集めやエキストラなどで地域が撮影に協力する「フィルムコミッション」の先駆けといわれたやり方です。この「こころの山脈」、安達太良山の麓、福島県本宮町(現・本宮市)を舞台とし、やはり劇中に「智恵子抄」が使われました。
奇縁を感じました。
さて、「八重子のハミング」、上映館はこちら。ぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
重いものをみんな棄てると 風のやうに歩けさうです。
詩「人生」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳
高橋洋子さん演じる、症状がかなり進行してしまってからの八重子さんの姿をスクリーンで観て、このフレーズを実感しました。
といっても、棄ててしまったそれまでの記憶、歩んできた道が無意味だったというわけではありませんが……。
ところで、この「人生」という詩、従来は光太郎詩の中ではほとんど注目されていなかった小品ですが、なぜかこのフレーズが数年前からネット上などで、光太郎の名言としてよく取り上げられています。
それはそれでありがたいのですが、表記を変えないでいただきたいと感じています。歴史的仮名遣いを現代仮名遣いにするのはともかく、「棄」の字を「捨」としたり、ひらがなにしたり……。この点は、他の光太郎作品を取りあげて下さっている朗読サイト的なHPなどでも多く見られます。ひどいものになると、まるまる1行抜けているとか……。
引用には出来るだけ注意を払い、勝手に改変しないというのがルールです。自分のPCの変換ルールと原文との相違から、意外とやっちまいがちで、当方も気づかずにやらかしている場合があるかも知れませんが……。