一昨日、千葉県八千代市の秀明大学さんに
行って参りました。同大のサイトに「近代文学展示館」の情報がアップされ、これは、と思った次第です。
同大学長の川島幸希氏、近代文学初版本コレクターとして有名な方で、氏のコレクションを中心に、平成24年(2012)から毎年の学祭「飛翔祭」で、それらを展示するコーナーを設けられていました。初年が「芥川龍之介展」、以下、「梶井基次郎展」、「宮沢賢治展」、「太宰治展」、そして昨年は「夏目漱石展」。それぞれ新発見を含むとんでもなく貴重な稀覯本や肉筆ものの展示があり、毎年、報道されていました。
当方、平成26年(2014)の「宮沢賢治展」を拝見に伺いました。大正3年(1914)の光太郎第一詩集『道程』私家版(通常と異なる三方金の装幀、識語署名入り)など、光太郎がらみの展示品も数多く並んでいたためです。
で、同大図書館の一角に、「近代文学展示館」が設置され、5年分の展示に関わる資料が並べられているということで、またそれらが拝見できるかと思い、行って参りました。
結果的には私家版『道程』は展示されていませんでしたが、ぽつぽつと光太郎に関わるものが並んでおり、興味深く拝見しました。
部屋は3室に分かれ、第1室が「夏目漱石展」資料。初版本や草稿などのカラーコピーが中心でした(他室も同様)。
『吾輩ハ猫デアル』上、明治38年(1905)。
左は『心』、大正3年(1914)、右が「坊つちゃん」が収められた『鶉籠』、明治40年(1907)。
光太郎は文展(文部省美術展覧会)の評をめぐり、漱石にかみついたことがありました。権威的なものへの反抗、という意味では、光太郎は「坊つちゃん」的性向が色濃かったように思われます。
第2室に、「太宰治展」、「宮沢賢治展」、「梶井基次郎展」関連。
太宰初版本の数々。
光太郎と太宰、面識はなかったようですが(あったとしても、戦時中、文学者の大きな会合などで顔を合わせた程度)、太宰実兄の津島文治が青森県知事として光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作を依頼したり、佐藤春夫や三田循司など、共通の友人知己がいたりといったことはありました。
『高村光太郎』全集には、太宰の名は児童文学者・堀尾勉にあてた書簡で1回だけ出てきます。
太宰治の事は一種の時代の象徴と感じます。
書かれたのは昭和23年(1948)、太宰自裁直後です。
そして「宮沢賢治展」のコーナー。
光太郎も編集に名を連ね、装幀を担当した最初の『宮沢賢治全集』(文圃堂、昭和9年=1934)が置いてありました。
飛翔祭の時もそうでしたが、自由に手に取れるというのがすばらしいところです。
他の部屋もそうなっていますが、壁には学生さんたちによるさまざまなレポートなど。光太郎が碑文を揮毫した花巻の賢治詩碑についてのものもありました。
大きく報道された新発見の賢治書簡。ただしこの手のものはカラーコピーです。
続いて「梶井基次郎展」。
梶井の名は『高村光太郎全集』には出てきませんが、まったく光太郎とつながりがなかったかといえばそうでもなく、同じ雑誌に寄稿したりしています。
昭和5年(1930)の『詩・現実』。光太郎詩の中では有名な方の部類に入る「のつぽの奴は黙つてゐる」、それから梶井の「闇の絵巻」が掲載されています。
第3室は、まるまる「芥川龍之介展」関連。
芥川の名も、太宰同様、『高村光太郎全集』には一度だけの登場です。昭和19年(1944)刊行の詩集『記録』で、各詩篇に前書きをつけた中の、「北東の風、雨」のもの。
「資本論」の定訳が普及せられ、一方、芥川龍之介全集の刊行が着手せられたのも此年である。
昭和2年(1927)という年についての説明です。
詩人としてある程度著名だった光太郎ですが、こうしてみると、いわゆる「文壇」の人ではなかったというのが実感されます。「私は何を 措 いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の 彫刻がたとひ善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。 」(「自分と詩との関係」、昭和15年=1940)と語っていた光太郎、やはり自分の意識としてはそうだったのでしょう。
さて、秀明大学さんの近代文学展示館。事前の申し込みが必要ですが、上記のようにいろいろ貴重なものを手に取れたり、写真撮影もOKだったりと、破格の好条件で見られる機会です。ぜひご利用下さい。
【折々のことば・光太郎】
その詩は奥の動きに貫かれてゐる。 その詩は清算以前の展開である。 その詩は気まぐれ無しの必至である。
詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳
いわゆる文壇から距離を置いていた光太郎が、詩を多作した理由についても、上記「自分と詩との関係」に述べられています。
以前よく、先輩は私に詩を書くのは止せといつた。さういふ余技にとられる時間と精力とがあるなら、それだけ彫刻にいそしんで、早く彫刻の第一流になれといふ風に忠告してくれた。それにも拘らず、私は詩を書く事を止めずに居る。
私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐるのだからである。自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。私には多分に彫刻の範囲を逸した表現上の欲望が内在してゐて、これを如何とも為がたい。その欲望を殺すわけにはゆかない性来を有つてゐて、そのために学生時代から随分悩まされた。若し私が此の胸中の氤氳を言葉によつて吐き出す事をしなかつたら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢ひ、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。
まさに「奥の動きに貫かれ」た「清算以前の展開」、「気まぐれ無しの必至」だったというわけですね。