まずは1週間前の『産経新聞』さん。
【新・仕事の周辺】 吉川久子(フルート奏者) セルビアと日本、親和の旋律
先日、春のベオグラードを訪れた。日本とセルビアの友好を兼ね、ワークショップとコンサートを行うためである。音楽を学ぶ学生が通う専門学校、芸術大学、さらに文化センターではピアニストとの共演と盛りだくさんのプログラムが組まれた。最終日はモーツァルトなどのクラシックと日本・セルビア両国の曲を演奏した。日本の旋律から「音のなかの文化」について話し、日本の旋律を通してわが国を紹介したいと思った。 ヨーロッパ南東部のセルビア共和国は裕福な国ではない。平均月収は約4万円。それにもかかわらず、東日本大震災の時には欧州諸国で真っ先に募金を送ってくれたと聞いている。
そんなセルビアは、日本の夏の風物である蚊取り線香の主原料、除虫菊の原産国で、日本との交流は除虫菊の種の輸出から始まったという。近年はテニスのジョコビッチ選手の出身国だと知る日本人も多くなったが、まだユーロ圏ではなく、観光客もまばらな、のどかな国であった。
今世紀になって民主政権が誕生したセルビアには、日本から国づくりのための支援が次々なされたという。生活に欠かせないバスや路面電車は今も黄色い車体に日の丸が描かれて運行されていた。それはセルビアで見る日本人の数よりもはるかに多かった。
私の活動の一つに、次の世代、そして世界に日本の文化の一つである童謡や抒情(じょじょう)曲の素晴らしい旋律を「音の文化」として伝え、広めたいという願いがある。音符は世界共通語で、音符の綴(つづ)る旋律によってその国の文化を垣間見ることができると思っている。
私は宮沢賢治や小泉八雲、野口雨情、山田耕筰、高村智恵子など日本を代表する人物と日本の旋律を重ねて演奏したり、JR鎌倉駅の発車メロディーとして童謡「鎌倉」を演奏させていただいた。また、海外アーティストとの演奏でも意識して日本の旋律をプログラムに入れている。
クラシックは崇高で日本の曲は大衆的だと日本人には思われがちであるが、私は両方とも甲乙つけがたいほど素晴らしいものだと思っている。私はこの旋律とともに日本の美しい風景や文化を紹介したいと強く思っている。そのためには日頃の読書も欠かせない。
日本の旋律として、セルビアの未来のフルート奏者たちと「さくらさくら」を、セルビア人ピアニストとは「春の海」と私の作曲作品「谷戸(やと)の風」をともに演奏した。人種が違っても、言葉が通じなくても、心が一つになれる音楽は究極の「愛と平和」であり「文化交流」だと実感した。
セルビアの民謡と日本の旋律には多くの共通点と親和性があると思う。同じように四季があり、季節の音を知っているからだろうか。静かなるドナウ川と広い空、セルビアの風の音は優しく滑らかで、郷愁を誘う音を奏でていた。
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【プロフィル】吉川久子
よしかわ・ひさこ フルート奏者。東京都出身。音楽大卒。「心に残る日本の曲」を次世代に伝えるコンサートを各地で開催。アートや文化財、建築物と音楽のコラボなども行っている。「鎌倉」「櫻」などアルバム多数。マタニティーコンサートの草分けでもあり、著作に『母と子の絆を深める マタニティコンサート』など。鎌倉ペンクラブ所属。

平成26年(2014)の第58回連翹忌で演奏をお願いした吉川久子さんの署名記事です。
吉川さん、それ以前から、さらにその後も文中にあるとおり、智恵子へのオマージュ的なコンサートを開催されていました。
「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」 (平成25年=2013)
「こころに残る美しい日本のうた 東北、その豊穣の大地に遊ぶ」 (同27年=2015)
「智恵子抄の世界を遊ぶ ~その愛と死と~」 (同)
また、セルビアとのご縁も以前からおありで、同国大使館での演奏などもなさっています。「音符は世界共通語」という表現。すばらしいですね。
先日も吉川さんから、「ディナーコンサート」と、「こころに残る美しい日本の歌」シリーズのご案内を頂きました。後者は、松尾芭蕉の『奥の細道』のトリビュートだそうです。東日本大震災の復興支援も続けていらっしゃる吉川さんですので、やはり東北がらみなのでしょう。


続いて、5/17(水)、『朝日新聞』さんの夕刊から。
「行きて帰る」気持ちに正直に 迢空賞の橋本喜典さん
歌壇の最高の賞と言われる第51回迢空(ちょうくう)賞(角川文化振興財団主催)の受賞が決まった歌人・橋本喜典さん(88)=東京都。歌集『行(ゆ)きて帰る』(短歌研究社)は第28回斎藤茂吉短歌文学賞(同賞運営委員会主催)とのダブル受賞に輝いた。 橋本さんは歌誌「まひる野」の元運営・編集委員長で、本作は10冊目の歌集。青年時代は肺結核で療養し、今は肺気腫で酸素ボンベが欠かせない。行動範囲は限られ、「書斎のガラス窓から見る庭の石や草花、空が視界のすべて」というが、その歌風は自在で、題材は幅広い。
《点滴も老の道草つぎつぎにレモン哀歌がかがやきて落つ
異常時代に人間性を喪はざりし「先生方」を老いてわれ思ふ》
長時間かかる黄色い点滴液を眺めて、ふと高村光太郎の詩を思い出す。学徒動員時代の教育や体罰を詠む一方、恩師らに思いをいたす。つらい中でも「いのちを愛(お)し」み、明るいことに目を向ける。時代という現実の中でも、若い人に希望を失わせたくない。師事した歌人・窪田章一郎が持っていた「向日性」に通じる歌風だ。
岡野弘彦・迢空賞選考委員は会見で「人間の老いと円熟の境地が出ている。歌の一つの姿としていいと思う」と評した。
橋本さんは「歌という旅を何度も繰り返しては初心に戻る。『行きて帰る』気持ちに正直でありたい、と歌に向き合ってきた。自分なりの信念を賞という形で認めていただいてうれしい」と語る。(岡恵里)

「つらい中でも「いのちを愛(お)し」み、明るいことに目を向ける。時代という現実の中でも、若い人に希望を失わせたくない。」これもいいですね。
こうした小ネタ的な扱いでも、光太郎智恵子の名が新聞紙上に載るのは嬉しいものです。「光太郎? 誰、それ?」、「智恵子? 知らんなぁ」ということにならないように、努めていきたいと存じます。
【折々のことば・光太郎】
今日はあの人の結婚する日だ。 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
詩「或る日(昭和三年九月二十八日)」より
昭和3年(1928) 光太郎46歳
昭和3年(1928) 光太郎46歳
「或る日(昭和三年九月二十八日)」は、秩父宮雍仁親王と、旧会津藩主松平容保の孫・勢津子妃殿下のご成婚に題を採った詩です。
ご成婚といえば、先頃、眞子内親王と小室圭氏の婚約が報じられました。
眞子内親王、吉川さん同様、東日本大震災の際には、ボランティアとして宮城県などの被災地を訪れていたそうで、光太郎文学碑が建っていた女川町の復興を描いた映画、「サンマとカタール」も東京での公開初日に鑑賞されていました。
ちなみに吉川さん、眞子さまのお母様、紀子さまの御前での演奏もされています。


また、やはり震災の年、
ご成年を迎えられた際に公開された写真には、宮内庁三の丸尚蔵館さんが所蔵する、光太郎の父・高村光雲作「養蚕天女」をご覧になっている写真も含まれていました。

そんなこんなで勝手に親近感を抱いており、いっそう喜ばしいニュースだと感じました。心痛む、あるいは腹立たしいニュースの多い昨今、ほっと心が和みました。
国民に人気の高かった秩父宮雍仁親王には、光太郎も親近感を抱いていたらしく、この詩以外にも、昭和28年(1953)、親王が50歳の若さで急逝された際、「悲しみは光と化す」という散文を書いて、哀悼の意を表しています。
余談になりますが、光太郎の歿後、当会の祖・草野心平が、そこから題名を拝借して、光太郎追悼文(新潮文庫版『智恵子抄』解説)を書いています。