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宮沢賢治と森荘已池の絆

2017年4月23日 森三紗著 コールサック社 定価1800円+税

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父は賢治との十年にわたる交友の証である書簡二十一通はことにも大切にしていた。幸いなことに、戦火に会うことも免れて貴重な文化的遺産として、父が生命の次に大切だという賢治からの書簡を目にする機会にも恵まれたのだ。(あとがきより)

目次

春谷暁臥        宮沢 賢治 
Ⅰ 宮沢賢治と森荘已池の絆
 1 タミと佐一と賢治 ―梶原多見枝詩集『草いちご』復刻版解説文  
 2 森荘已池展・賢治研究の先駆者たち②・企画展資料集より 
  《森荘已池(佐一)の幼年時代》 
  《文学の夢ふくらむ》― 佐一の盛岡中学時代― 
  《あなたが北小路幻なら尊敬します》― 佐一『春と修羅』に感動 ― 
  《佐一と賢治の交流》― 店頭での出会い ― 
  《『貌』をめぐって》― 佐一と賢治の交友開始 ―  
  《「春谷暁臥」の書かれた日》― 佐一と賢治交友深まる ― 
  《宮沢賢治から森佐一(惣一)に宛てた書簡》 
  《石川善助をめぐって》― 佐一と賢治 ― 
  《賢治の推薦で「銅鑼」同人となる》 
  《賢治没後の評価》― 岩手日報「宮沢賢治」追悼号 ― 
  ― 岩手日報の佐一と賢治の関連記事 ―  
  《十字屋版『宮澤賢治全集』の編集》 
  《宮沢家での聞書き》― 「宮沢賢治氏聴書きノート」― 
  《宮沢賢治の伝記について》 
  《宮沢賢治の短歌について》― 『宮澤賢治歌集』刊行 ― 
  《芥川賞候補、直木賞受賞について》 
  《森荘已池(惣一)の宮沢賢治研究の足跡(1)》 
  《森荘已池の宮沢賢治研究の足跡(2)》 
  《森荘已池の文芸活動(著作)》 
  《賢治から荘已池(佐一)への遺品》 
  《森荘已池と随筆》― 宮澤賢治をめぐる「ふれあいの人々」―
  《光をあてた人々》 
 3 森佐一が森荘已池になるまで ―森荘已池詩集『山村食料記録』解説・解題 
 4 宮沢賢治の短歌が世に出るまで ―『宮澤賢治歌集 森荘已池校註』新版解説文
 5 森荘已池と「風大哥」考 
 6 石川啄木と宮沢賢治と森荘已池 ―『一握の砂』発刊百年に思う
 7 『ふれあいの人々 宮澤賢治』新装再刊 ―「森荘已池ノート」解説文

Ⅱ 賢治文学の深層
 1 宮澤賢治の宗教と民間伝承の融合 ―世界観の再検討 童話〔祭の晩〕考 
 2 文語詩「選挙」考 ―『宮沢賢治 文語詩の森 第三集より』 
 3 宮澤賢治がロシア文学から影響された共存共栄の概念 ―作品の見直し 
 4 高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿
 5 宮沢賢治と同人雑誌(第一回)―「アザリア」「反情」「女性岩手」 
 6 宮沢賢治と同人雑誌(第二回)「貌」① ― 森佐一(荘已池)と生出桃星と宮沢賢治
 7 クーボー博士とブドリ 「凶作に関する研究」と実践(一)  

Ⅲ 賢治研究の歴史とその後の詩人たち
 1 昭和二十年までの賢治評価―「岩手日報」を中心として
 2 宮沢賢治の会(盛岡)七十年の歩み ―機関誌「イーハトーヴォ」を中心として 
 3 第三回宮沢賢治国際研究大会成功裡に終る―「賢治さんの想像力ときたら、大したもんだ!」
 4 イーハトーブの詩の系譜

初出一覧 
宮沢賢治と森荘已池(佐一)交流略年譜
あとがき 
著者略歴 


森荘已池(そういち)は、明治40年(1907)、盛岡出身の直木賞作家です。詩も書いており、在学期間はかぶりませんが、旧制盛岡中学校の先輩であった宮沢賢治と深い交流を持っていました。光太郎とも賢治つながりで縁があり、戦後の光太郎の日記や書簡にその名が頻出します。著者、三紗氏は荘已池の息女です。

『高村光太郎全集』には、光太郎から森宛の書簡が2通掲載されていますが、いずれも佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの転載でした。すると、平成21年(2009)、森の遺品の中からその2通を含む8通の光太郎書簡が発見され、岩手ではニュースになりました。その後、三紗氏ともお会いする機会があり、その話もしたのですが、これまでその内容が不分明でした。

今回出版された『宮沢賢治と森荘已池の絆』中に、「高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿」という項があり、そこに当該書簡も全文が掲載されていました。同項は平成21年(2009)の雑誌『コールサック』が初出だったとのことでしたが、それは存じませんでした。全集既掲載のもの以外は、昭和26年(1951)から翌27年(1952)にかけ、花巻郊外太田村の山小屋から送られたものが5通、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後のものが1通。

とりわけ最後のものは、面白い内容でした。森から届いたリンゴ一箱の礼状で、「東京へ来てみると岩手のリンゴのうまさがよく分かります。東京の果物屋の店頭にさらされてゐるリンゴはまつたくダメです。近所の人にもわけて喜ばれました。」とあります。また、現在、花巻高村光太郎記念館の企画展「光太郎と花巻の湯」で展示中の、光太郎が使っていた浴槽にも触れています「てつぽう風呂の事は笑止でした。」ただ、どうして笑止なのかなど、詳しいことはわかりません。

その他、当方、森の詳しい人となり等、存じませんでしたので、興味深く拝読しました。光太郎もからむ各種『宮沢賢治全集』出版に森も大きく関わっており、読んでいてパズルのピースが埋まってゆくような感覚でした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

――私は口をむすんで粘土をいぢる。 ――智恵子はトンカラ機(はた)を織る。
詩「同棲同類」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

今日は智恵子131回目の誕生日です。

20代の頃、雑誌『青鞜』の表紙絵などでならした智恵子ですが、昭和に入って40代ともなるとると、もはや油絵制作には行き詰まり、光太郎の手ほどきで彫刻をはじめたり、草木染めに挑戦したり、そしてこの詩にあるように機織りにも取り組んだりしました。機織り機は郷里から取り寄せたとのこと。光太郎が亡くなるまで愛用していたちゃんちゃんこは智恵子の織った布で作られたものです。

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しかし、この年には実家は破産寸前、智恵子の心にぽっかり空いた空洞は、彫刻でも草木染めでも、機織りでも埋められることはありませんでした。