5/15(月)、岩手花巻郊外の旧太田村山口地区、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内で、第60回高村祭が開催されました。

そぼ降る雨の中、レンタカーを駆って、前日から泊まっていた大沢温泉菊水館さんを出発、高村山荘を目指しました。雨天時は、旧山口小学校跡地のスポーツキャンプ村屋内運動場(通称・高村ドーム)での開催のはずでしたが、そちらにはどなたもいらっしゃいません。開始時刻の10時くらいには雨も上がるだろう、という予測の元、通常通り、山荘敷地内の「雪白く積めり」詩碑前で強行する、とのこと。雨の中、テント設営や椅子並べ、光太郎遺影の設置などをお手伝いしました。

イメージ 1

結局、雨の中で開会。

イメージ 2

イメージ 3

詩碑に献花、献茶。詩碑の下には光太郎の遺骨ならぬ遺髯が埋葬されています。

イメージ 4

地元西南中学校の生徒さんの先導で、全員による碑詩「雪白く積めり」朗読。

イメージ 5

主催者挨拶ということで、花巻高村光太郎記念会・佐藤進会長(故・佐藤隆房ご子息)、上田東一花巻市長のご挨拶。

その後、地元小中高、高等看護学校の児童生徒さんたちによる楽器演奏、合唱、朗読。

イメージ 6

特別講演は、藤原冨男氏。元花巻市文化団体協議会会長で、光太郎がこの地にいた時に、旧山口小学校に勤務されていた方です。演題は「思い出の光太郎先生」。

イメージ 7

学校の職員室の火鉢を囲み、光太郎から話を聞いたこと――山小屋の壁の隙間から、中を覗いていたキツネやタヌキと目があったとか(笑)――、よかれと思って、児童たちを引き連れ、山小屋周辺の草抜きをしたら、逆に光太郎に怒られたとか――その時光太郎は児童たちに、たとえ雑草でも親がある、命がある、的な話をしたそうです――藤原氏、このエピソードを引いて、「光太郎は彫刻家、詩人、書家、いろいろな側面のあった人だが、そこに「教育者」という面も色濃くあったことを付け加えたい」とおっしゃいました。なるほどな、と感じました。

結局、最後まで雨はやまず、テントに吹き込む雨でジャケットの裾がびしょ濡れになりましたが、昨日もご紹介した詩「松庵寺」の「雨がうしろの障子から吹きこみ 和尚さまの衣のすそさへ濡れました」を思い出し、これもある意味乙なものだと思いました。ただ、気温が低く、温暖な房総住まいで寒さに弱い当方、最後はガタガタふるえていましたが(笑)。

午前の部終了後、午後からは地元の皆さんの演芸会的な催しでしたが、そちらはパスしました。同じ敷地内の高村光太郎記念館さんでお弁当を頂いた後、館の展示や高村山荘、そしてリニューアルされた智恵子展望台などのガイド役をやっておりました。

まずご案内したのが上田市長のご同窓で、前消費者庁長官の板東久美子氏。光太郎ファンだそうで、こちらに一度来てみたかったとのこと。ありがたいかぎりです。

高村祭の後などには、こうした役得で、普段は入れない山小屋の内部にも入れていただけます。

イメージ 8

イメージ 9

光太郎が使っていた井戸。

イメージ 10

今回はさらに、「月光殿」と名付けられた、便所棟にも入れていただきました。

イメージ 11

光太郎が壁に明かり取りのため彫った「光」一字。花巻高村光太郎記念会さんで、ロゴマーク的に使っています。

イメージ 12  イメージ 13

こちらは高村祭参加者全員に配られたコースター。

イメージ 14

こちらはなんと言えばいいのでしょう、杉の板を使った木札のような。これも役得で、いただいてしまいました。定価4,000円ですが、欲しいという方がいらっしゃり、売れているそうです。

イメージ 15  イメージ 16

その後、連翹忌ご常連であるいわき市立草野心平記念文学館の小野浩学芸員、小野氏のご友人で、料理研究家 中野由貴さん。中野さんは現在、同館で開催中の企画展「草野心平の詩 料理編」の関連行事として行われる「心平さんの胃袋探訪 〜創作料理の試食と解説〜」の講師を務められる方です。それだけでなく、先月、このブログで、新しく創刊された花巻のタウン誌『まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』をご紹介した折、「花巻ファンです。こんな花巻の本を待っていました! 早速年間購読に申し込みました。 光太郎レシピのページも大変楽しみです。」とコメントして下さった方で、お互いに驚きました。こうやってネットワークが広がっていくんだな、と実感しました。

さらに、敷地内で行き違いになってあまりお話もできませんでしたが、このブログをお読み下さって、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方や、昨年、当方が講演させていただいた盛岡少年刑務所の方もいらしていて、ありがたく存じました。

そして、近くの公民館的なところで開かれた、地元の皆さんによる反省会、懇親会的な催しに顔を出し、宿に帰りました。

夕方のローカルニュースを拝見。

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 26

イメージ 27

イメージ 28

イメージ 29

翌朝、大沢温泉さんの売店で購入した地元紙。まずは『岩手日報』さん。

イメージ 30
 

高村光太郎に思いはせて 花巻、合唱や講演に400人

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第60回高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前広場で開かれた。参加者は光太郎が地元で暮らした当時を知る関係者の講演や児童生徒の合唱などを通じ、住民らを大切にした足跡に思いを寄せた。
 地元住民やファンら約400人が参加。同記念会の佐藤進会長は「光太郎先生が花巻で暮らした7年間は地域にとって貴重なものだった。昨年、記念館が新しくなったので立ち寄ってほしい」とあいさつした。
 旧山口小教諭で、光太郎と交流のあった同市中北万丁目の藤原冨男さん(84)が講演。光太郎が生き物を通じて子どもたちに命の大切さや思いやりを説いたこと、芸術家らしい風変わりな一面があったことなどを紹介した。「光太郎先生は芸術家だけでなく、偉大な教育者だった。夢でいいからもう一度お会いしたい」と締めくくった。 【写真=高村光太郎の遺志を受け継ぎ、精神歌を披露する西南中の生徒たち】


『岩手日日』さん。

イメージ 31
 

偉人の足跡へ思いはせ 高村祭 詩碑前で朗読・合唱

 花巻市にゆかりが深い彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で行われ、参加者が詩の朗読や合唱などを通じて偉人の足跡に思いを巡らせた。
 同日は、市内外から約400人が参加。光太郎の遺影が飾られた詩碑に、太田小学校2年の中島絢星君と伊藤真桜さんが花を手向け、花巻東高校茶道部による献茶で開会。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」の詩を参列者全員で朗読した。
 花巻高村光太郎記念会の佐藤進会長と上田東一市長のあいさつに続き、太田小学校2年生16人が鍵盤ハーモニカで「かっこう」を演奏、旧山口小学校校歌を合唱し、詩「案内」を朗読した。
 西南中学校1年生45人が「西南中学校精神歌」などを合唱したほか、花巻東高校3年の横手隼平君が「元素智恵子」、同じく佐藤凪子さんが「人類の泉」、花巻高等看護専門学校1年の主濱京香さんが「非常の歌」をそれぞれ朗読した。
 花巻高等看護専門学校1年生44人による「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」の合唱が披露されたほか、元市文化団体協議会長の藤原冨男氏による「思い出の光太郎先生」と題した講演が行われた。参加者は、かつて同山荘に暮らし地元に親しまれた光太郎の人柄をしのんだ。
 同祭は、戦火で東京のアトリエを失った光太郎が1945年に花巻に疎開した日に合わせて毎年開催され、今回で60回目を迎えた。


それから、購入はしませんでしたが、『朝日新聞』さんでも岩手版で報道して下さいました。 

新緑の中、光太郎しのび朗読

 戦火を逃れて花002巻に疎開した彫刻家で詩人の高村光太郎を記念する「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘周辺であった。詩碑の前で、参加者約500人が声を合わせて光太郎の詩「雪白く積めり」を朗読したり、地元の小学生らが楽器を演奏したりして光太郎の芸術と人柄をしのんだ。

 一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の主催。光太郎が花巻に疎開した5月15日を記念し、詩碑が除幕された1958年から続いており、今年で60回目。疎開した光太郎と交流があった藤原冨男・元花巻市文化団体連絡協議会会長の「思い出の光太郎先生」と題した講演もあった。あいにくの雨だったが、参加者は「この新緑を見たら光太郎先生はどんな詩を詠んだだろう」などと話していた。(溝口太郎)


来年以降も5月15日、花巻高村祭が開催されます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

死ねば死にきり。 自然は水際立つてゐる。

詩「夏書十題 死ねば」全文 昭和3年(1928) 光太郎46歳

当会顧問北川太一先生の盟友で、戦後いち早く光太郎を論じた故・吉本隆明の言葉から。

僕は、身体とそれに伴う精神の死について、いちばん好きな言葉があります。高村光太郎の詩の中の「死ねば死にきり、自然は水際立っている」という言葉です。死ねば死にきりで、やっぱり自然というものは見事なものだと高村光太郎はいっているわけでしょう。僕は、人間の身心の死はこれでいいのではないかと思います。
(略)
人間は永遠だというのも、人間は輪廻転生するものだというのも、それはそれでとてもいい感じですが、何となく嘘くさい。僕は「死ねば死にきり」でいいという気がします。

まさしく光太郎も輪廻転生などといったことは信じていなかったわけで、うなずけます。

しかし、亡くなった人は、残された者の中に、かけがえのない思い出として残るわけで、光太郎もそこまでは否定していません。藤原氏のご講演にも、山小屋での独居生活が長くなり、淋しくはないかと問うたところ、「智恵子がいるから」と答えた光太郎のお話がありました。

旧太田村の皆さんも、光太郎とのかけがえのない思い出を大切に、60回もの高村祭を続けてこられたわけですね。