今日から2泊3日の行程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に行って参ります。
今日は、午後から郊外の高村光太郎記念館さんに。現在、企画展「光太郎と花巻の湯」が開催中です。11日の木曜日に、『朝日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。
岩手)高村光太郎の風呂おけを初公開 花巻市の記念館
花巻市太田の高村光太郎記念館で、企画展「光太郎と花巻の湯」が開かれている。太田の山荘で7年間暮らした彫刻家の光太郎が山荘の風呂小屋で使った「鉄砲風呂」という風呂おけが初めて公開されている。 1945年、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って戦火の東京から花巻に疎開した光太郎。風呂おけは、山荘に風呂がなくて困っている光太郎を助けようと集落の人々が木材を持ち寄って風呂小屋を建てた際、清六が贈ったものという。
腕利きの花巻の職人に頼んで作らせたという直径90センチほどの楕円(だえん)形のヒノキのおけには鋳鉄製の筒が組み込んであり、筒でまきを燃やして湯を沸かす仕組み。だが、大量のまきが必要なため、光太郎は「自分だけでたいてはすまない。今都会では不自由をしているので、そのことを考えると気がすすみません」と、あまり入浴しなかったという。
企画展では、持病の神経痛を癒やすため光太郎が花巻各地の温泉を巡ったエピソードを当時の温泉の絵はがきなどとあわせて紹介している。6月26日まで。(溝口太郎)
宿は花巻南温泉峡・大沢温泉菊水館さんをとってあります。築160年以上という茅葺きの建物で、非常に風情があります。当方、何度か泊めていただきました。大沢温泉さんは、通常の温泉ホテル的な山水閣、主として湯治客対象の自炊部、そして別館的な菊水館と、三館に分かれています。ここ2、3年、山水閣と自炊部に泊まることが多く、菊水館は久しぶりです。

かつて光太郎も大沢温泉さんをよく利用しました。山水閣の利用が多かったようですが、菊水館にも泊まっています。はっきり菊水館だとわかるのは、昭和26年(1951)12月23日。当日の日記から。
駅より大沢温泉行、菊水館に泊る。 マッサージをたのむ、風呂よろし。
暮れの時期ですので、この頃は大沢温泉さんも真っ白でしょう。雪見風呂だったと思われます。
翌朝の記述は、こうなっています。
朝東京より太田和子さんといふ女性たづねてくる、朝飯を一緒にとり、九時過の電車、太田さんは小屋を見にゆき、余は花巻行、
太田和子は、光太郎も寄稿した雑誌「いづみ」の記者です。翌年の光太郎帰京後は、足繁く中野のアトリエを訪ねています。
はっきり菊水館に宿泊したとわかるのは、この時だけですが、日記に「大沢温泉」とだけ書かれていて、三館のどこだったかが不明な日もあれば、昭和24年(1929)から翌年にかけての日記の大部分が失われているので、もっと機会があったように思われます。
菊水館のどの部屋を利用したのかは不明です。帳場に近い方に「松の間」「竹の間」という二間続きの広い部屋があります。幕末に南部の殿様も泊まったというのは、このどちらかでしょう。当方も松の間に一回だけ泊めていただきました。光太郎も大沢温泉さんでお得意様の部類に入っており、このどちらかのような気はします。あとは6畳または8畳一間の梅の間。当方、今回も含め、普段はこちらです。


地元児童生徒による詩の朗読、器楽演奏、コーラスの他、特別講演として、当時の光太郎をご存じの藤原冨男氏(元花巻市文化団体協議会会長)による『思い出の光太郎先生』があります。
せっかくですのでもう1泊。今回もそうですが、最近は、現地でレンタカーを借りることが多いので、結構気ままに動けます。余裕があれば周辺のゆかりの地なども回ろうと考えております。
帰ってからレポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
一生かかつて 自己をジヤスチフアイしようとする。 そいつは何だかいやしい。 そいつは何だかうつたうしい。
詩「夏書十題 (一生かかつて)」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳
「ジヤスチフアイ」は「justify」。「正当化すること」の意です。
「正当たらん」と考えて行動することはいやしいことではないでしょう。しかし、「正当たらんとして行動する」のと「正当化する」のは別ですね。「正当化」は「正当」でないことを、さも「正当」であるかのごとく見せかけることですから。それはたしかに「いやしい」根性のなせるわざですし、はたから見れば「うつたうしい」ことですね。
テレビのニュースなどで国会審議の模様を見ると、まさにそう感じます。