昨日ご紹介した、岩波書店さん刊行の『岩波茂雄文集 第3巻』。昭和17年(1942)11月3日、丸の内の大東亜会館(現・東京會舘)で開催された、同社の創業30周年を記念する「回顧三十年感謝晩餐会」について調べるために購入しました。
光太郎も出席したこの席上、岩波茂雄から光太郎に依頼があって作られた岩波書店店歌「われら文化を」が披露されています。作曲は「海ゆかば」などで有名な信時潔。前年には、やはり光太郎作詞の「新穀感謝の歌」の作曲も手がけています。こちらは宮中で行われていた新嘗祭を全国規模に拡大した新穀感謝祭にかかわります。
「回顧三十年感謝晩餐会」については、同年・同社刊行の雑誌『図書』第83号終刊号や、昨日もご紹介した『写真で見る岩波書店80年』(平成5年=1993)などに詳しく紹介されていますが、『岩波茂雄文集 第3巻』、その補完資料として使えそうです。
『図書』や『写真で見る岩波書店80年』にも載っていた、当日の写真。出席者は520余名だったそうです。

それから、こちらも『写真で見る岩波書店80年』とかぶりますが、左から信時、岩波茂雄、光太郎の3ショット。

こちらが撮影されたのは、熱海にあった岩波茂雄の別荘「惜櫟(せきれき)荘」。昭和16年(1941)の竣工です。「居眠り磐根江戸草子」「酔いどれ小籐次留書」シリーズなどで有名な時代小説家の佐伯泰英氏が買い取り、建造当時の形に解体復元されたことが話題になりました。平成25年(2013)にはBS朝日さんでその様子を追ったドキュメンタリー「惜櫟荘ものがたり」が放映され、光太郎についても触れられていました。
キャプションには信時の名はありませんが、信時側の資料である、平成20年(2008)、財団法人日本伝統文化振興財団から発行されたCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」付録のブックレットに、信時家に伝わる惜櫟荘での写真が掲載されており、同じ日に撮影されたものと思われます。

おそらくこの時に、「われら文化を」作成の相談が為されたのではないでしょうか。
「われら文化を」、歌詞は以下の通りです。
おほきみかど のりましし
かの五箇条の ちかひぶみ。
われら文化を つちかふどもがら、
思ひはるかに 今日もゆかむ。
ひんがしに 日はありて
世界のうしほ いろふかし。
われら文化を つちかふともがら、
こころさやけく 明日もゆかむ。
こころさやけく 明日もゆかむ。
「回顧三十年感謝晩餐会」の席上、「岩波合唱団」によって初演されました。指揮は澤崎定之、ピアノは宮内(瀧崎)鎮代子(しずよこ)。「岩波合唱団」というのは実態がよくわかりませんが、澤崎と宮内は、この時代、それなりに名の通っていた音楽家です。斉唱、二部合唱、四部合唱と、三回演奏されたとのこと。
このうち、斉唱バージョンがレコード化されています。レーベルは「音研」。正式には「目黒音響科学研究所」といい、社歌や校歌などの自主制作盤を手がけていました。現物を入手しようと探しているのですが、なかなか見つかりません。ただ、先ほどもご紹介したCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」に、これから再録された演奏が含まれています。

おそらく、「回顧三十年感謝晩餐会」の出席者に、記念品として贈られたのではないかと思われます。『岩波茂雄文集 第3巻』に、「創業三〇年記念品に添えた書状文案」(昭和18年=1943)という文章が載っており、「心許りの記念の品其節献呈仕るべき筈の処意外に準備に手間取り此程漸く出来仕り候に付き一周年を期し別送御手許まで御届け申上候」という一文があります。記念品が何だったのか、詳細な記述がないので何ともいえませんが、レコードであれば、プレスに手間取ることも有り得、当てはまるような気がします。
聞いた感じでは、荘厳な感のする曲です。当時の評が『図書』に載っています。「大方の御批評では、詞句の格調といひ、曲の旋律といひ、共に一岩波書店の店歌に留めておくのは惜しいほど優れたものであるとのことであつて、広く文化にたづさはる人々の歌にしたいといふお言葉さへ耳にしたのであつた。」とのことでした。
しかし、やはり時局を反映し、「あめのした 宇(いへ)と為(な)す、」「おほきみかど のりましし」と言った語句が使われており、そのためでしょう、この歌は戦後、お蔵入りとなったようです。
岩波茂雄は、昭和15年(1940)には同社で刊行した津田左右吉の複数著作(『古事記及日本書紀の研究』など)が検閲に引っかかり、出版法違反により起訴され、同17年(1942)の第一審では禁錮2ヶ月、執行猶予2年の判決を受けています。その後控訴し、「回顧三十年感謝晩餐会」開催時には係争中でした。結局、戦時中のため、裁判もしっかりおこなわれなかったようで、同19年(1944)には時効により免訴ということになっています。
その岩波ですら、「あめのした 宇(いへ)と為(な)す、」=「八紘一宇」という文言を織り込んだ歌を自社の店歌にしていたわけで、まさに暗黒の時代だったことがよくわかります。
ただ、岩波流のレジスタンスもあったという説もあります。、「回顧三十年感謝晩餐会」が開かれていた同日同時刻、しかも同じ大東亜会館で、情報局主催の「大東亜文学者会議」閉会後の懇親会も開催されていました。ところが「大東亜文学者会議」出席者の多くは、光太郎を含め、情報局主催の懇親会に参加せず、岩波の「回顧三十年感謝晩餐会」に出席。これに対し、情報局次長の奥村喜和男が、「岩波はけしからん!」と激怒したそうです。しかし、同日同時刻に設定したのは岩波ではなく情報局だという説もあり、真相は闇の中です。それにしても、多くの人々が情報局主催の懇親会ではなく、岩波の晩餐会に出席したというのは、ある意味痛快です。
このあたり、今秋当会発行予定の『光太郎資料 48』に詳しく書くつもりでおります。ご入用の方はご一報下さい。
【折々のことば・光太郎】
黙つてゐても心の通じる、 いいも悪いも両手に持つ、 さういふ友を持つのはいい。
詩「さういふ友」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳
光太郎より2歳年長だった岩波茂雄なども「さういふ友」の一人だったかもしれません。
大正2年(1913)の詩「人類の泉」では、「もう共に手を取る友達はありません ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです」と謳っていた光太郎ですが、15年経つと、心境の変化があるのでしょうか。
同じ「人類の泉」で、智恵子に対しては「けれども 私にあなたが無いとしたら―― ああ それは想像も出来ません 想像するのも愚かです 私にはあなたがある あなたがある」と語りかけていましたが、この時期には「親離れ」ならぬ「智恵子離れ」的な部分もあったのではないかと思われます。