昨日に引き続き、新刊情報です。
岩波茂雄文集 第3巻
2017年3月27日 岩波書店 植田康夫/紅野謙介/十重田裕一 編 定価4,200 円+税全3巻 内容見本より
一九一三年、神田高等女学校にて教鞭をとっていた岩波茂雄は、その職を辞して神保町の地に古書店を開業しました。出版業の道を歩み始めてのちは、「文化の配達人」を志し、岩波文庫の発刊、講座や全集の刊行などを通して、理想の出版を追い求めました。日中戦争開戦の翌年、一九三八年には、軍国主義化の時局を深く憂いながら、岩波新書を創刊しています。言論弾圧の風潮が高まるさなかでも、その志に変わりはありませんでした。四五年には、敗戦を「天譴」と受けとめ、文化国家再建のために雑誌『世界』を創刊しました。
日々の仕事のなかで、茂雄は何を思い、いかなる信念を抱いて、出版の未来を展望していたのでしょうか。中学時代の請願書から無条件降伏に触発された最晩年の手記まで、生涯に書き遺したさまざまな文章を年代順に集成します。本文集は、一出版人の軌跡であり、近代日本の学術と文芸をめぐる一つの精神の記録でもあります。
日々の仕事のなかで、茂雄は何を思い、いかなる信念を抱いて、出版の未来を展望していたのでしょうか。中学時代の請願書から無条件降伏に触発された最晩年の手記まで、生涯に書き遺したさまざまな文章を年代順に集成します。本文集は、一出版人の軌跡であり、近代日本の学術と文芸をめぐる一つの精神の記録でもあります。
第3巻内容
創業から三十年を迎えた岩波書店は、戦況の悪化に伴う物資の不足と言論統制のもとで、厳しい経営状況へと追い込まれていく。四四年にはすべての雑誌が休刊、四五年半ばには出版活動の休止を余儀なくされた。戦後の荒廃と混乱のなかで、敗戦を「天譴」と捉えた茂雄は、再出発にあたりどのような決意を抱いていたのか。
目次
Ⅰ 戦時体制下の出版人 一九四二―四四年
Ⅱ 貴族院議員となる 一九四五年
Ⅲ 「文化の配達夫」 一九四六年
Ⅳ 年代不詳
Ⅱ 貴族院議員となる 一九四五年
Ⅲ 「文化の配達夫」 一九四六年
Ⅳ 年代不詳
解題 主要参考文献一覧 付録 解説 年譜
というわけで、岩波書店さんの創業者、岩波茂雄の全集、その3巻目(最終巻)です。
光太郎と岩波書店さんの縁は深く、昭和8年(1933)には「岩波講座世界文学」シリーズの『現代の彫刻』をまるまる一冊執筆し、6人の共著『近代作家論』ではベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの評伝を寄せています。昭和30年(1955)には美術史家の奥平英雄編で『高村光太郎詩集』が岩波文庫のラインナップに組み込まれた他、光太郎歿後、『ロダンの言葉抄』(同35年=1960)、『芸術論集 緑色の太陽』(同57年=1982)も同文庫で刊行されました。また、同社刊行の雑誌『図書』にも寄稿しています。
そうした縁から、岩波茂雄は光太郎に寄稿以外にもいろいろ依頼をしています。
まず、社章。同社のハードカバーには、必ず背の下部に印刷されています。ミレーの「種まく人」をモチーフにしたものです。
岩波茂雄の言によれば、
ミレーの種蒔きの画をかりてマークとしたのは、私が元来百姓であって労働は神聖なりという感じを特に豊富に持って居り、従って晴耕雨読の田園生活が好きであるという関係もあり、詩聖ワーズワースの ”低く暮らし、高く思う”を店の精神としたためです。なお文化の種をまくというようなことに思い及んでくれる人があれば一層ありがたい。
とのことです。
同社のホームページには、「「種まく人」のマークについて」ということで、
創業者岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりて岩波書店のマークとしました。茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身で、「労働は神聖である」との考えを強く持ち、晴耕雨読の田園生活を好み、詩人ワーズワースの「低く暮し、高く思う」を社の精神としたいとの理念から選びました。マークは高村光太郎(詩人・彫刻家)によるメダルをもとにしたエッチング。
とあります。
光太郎によるメダルというのがこちら。昭和8年(1933)頃の制作と推定されています。撮影は光太郎令甥の故・髙村規氏です。
しかし、これは不採用だったと、光太郎自身が語っています。
戦争がまだあまり烈しくなかつた頃だと思ふが、或日岩波さんがきて店のマークにするのだからミレーの種まく人をメダルに作つてくれといふことだつた。頭や手がメダルの円の外へはみ出しても構はないから、のびのびと作つてくれといふ。私も面白いと思つて、ニユーヨークのメトロポリタン美術館にある種まき絵を原本にして直径五寸の粘土メダルを作り、それを石膏型にして根津に居たメダル縮圧工作家にたのんで洋服の胸につけるバツジ大にプレツスしてもらつた。
と、まぁ、ここまではいいのですが、この後、事態は急転直下します。
ところがこれを岩波さんの店に届けると物議がおこつた。種まきの人物があまり威勢がよく、かぶつてゐるおかま帽がまるで鉄かぶとのやうに見え、総体に軍国調のにほひがするといふことであつた。さういはれてみると、あの農夫のおかま帽はその頃みなのかぶつてゐた鉄かぶとじみてゐるのに気づき、私も苦笑してこれは止すことにした。その後岩波さんは誰かにたのんで、もつとおだやかな種まく人を描いてもらひ、それを店のマークにして岩波文庫はじめ其他の出版物に用ゐ、今日でもつづいてゐる。バツジに作つたかどうかは知らない。私は石膏の原型を引きとつて、アトリエにぶらさげて置いたが、これも焼けた。
(「焼失作品おぼえ書」 昭和31年=1956)
光太郎の作ったメダルに対し岩波茂雄がダメ出しをして不採用、使われている社章は別の「誰か」が描いたものだというのです。
しかし、同社のホームページにはそのあたりの記述がありません。そこで考えられるのは、「誰か」が誰だか、同社でも不明であるということ。しかし、ブロンズに鋳造されたメダルの現物は同社に残されており(上の画像)、こちらは光太郎作とはっきりわかっていて、さらに岩波茂雄によるダメ出しがあったという事実も忘れ去られ、そんなこんなで、「光太郎の意匠」となってしまっているのではないのでしょうか。
平成5年(1993)、同社から刊行(非売)された『写真で見る岩波書店80年』の扉にも、このメダルの写真がドーンと使われています。
本来はボツ作品なのですが……(笑)。
さて、寄稿以外の岩波茂雄による光太郎への依頼、もう1件ありまして、そちらについて調べるために『岩波茂雄文集 第3巻』を購入したのですが、もう、今日の記事が長くなってしまったものですから、明日に回します。このブログ、執筆にあまり時間をかけますと、エラーが生じます。ご寛恕のほど。
【折々のことば・光太郎】
智恵子は遠くを見ながら言ふ、 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。
詩「あどけない話」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳
人口に膾炙しているという意味では光太郎詩の代表作の一つ「あどけない話」。89年前の明日(5月11日)に書かれた詩です。
東日本大震災に伴う福島第一原発の事故後、福島の復興への合い言葉的に、広く使われるようになった「ほんとの空」の語は、これが出典です。
この詩に関しては繰り返し述べてきたので、さらに繰り返しません。繰り返しませんが、福島に「ほんとの空」が一日も早く戻ることを願ってやみません。