当方の所属するアマチュア合唱団は、全日本合唱連盟に加盟しています。そちらの会報、といいながらA4判120ページ超の厚い雑誌形態をとる『ハーモニー』第180号が団に届きまして(割り当てで団として購読しなければなりません)、一冊、もらってきました。新刊の楽譜やCDの新譜、コンサート情報などで、時折、光太郎作詞の合唱曲の情報が載っているためです。

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意外なところに、光太郎智恵子の名が。

毎号ではない不定期の掲載のようですが、「歌のふるさと 歌碑をたずねて」という連載があります。この場合、歌碑の「歌」は短歌の「歌」ではなく、「歌曲」の「歌」。合唱曲、独唱曲を問わず、歌曲の歌詞が刻まれた、全国に建つ碑を紹介するページです。これまでに、「箱根八里」、「宵待草」、「早春賦」、「小さい秋みつけた」などが紹介されています。

今号では、群馬の前橋に建つ「チューリップ」碑(「さいた さいた チューリップのはなが……」 井上武士作曲・井上と近藤宮子作詞)および、品川にある「レモン哀歌」碑が紹介されています。

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光太郎、智恵子 愛と悲しみの絶唱「レモン哀歌」

 「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で…」
 彫刻家で詩人の高村光太郎が妻・智恵子の最期をうたった詩「レモン哀歌」の碑が東京都品川区にあります。光太郎・智恵子というと福島のイメージが強いのですが、智恵子は品川区南品川のゼームス坂病院で亡くなりました。病院はすでにありませんが、その跡地に地元の団体によって、この碑が建てられました。
 二人の愛の軌跡、詩集「智恵子抄」は清水脩氏により音楽化され、「智恵子抄巻末のうた六首」は合唱の名曲として親しまれています。「智恵子抄」の中の一編である「レモン哀歌」も鈴木憲夫、西村朗、平吉毅州といった人たちが合唱曲にし、近年では鈴木輝昭氏の曲を智恵子の母校の後身である福島県立橘高校が歌い、コンクール全国大会(第62回・金沢)で金賞を受賞しました。
 「レモン哀歌」は「…写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」で終わります。碑の前にはレモンが絶えません。
【アクセス】 JR京浜東北線・東急大井町線大井町駅・京浜急行線新馬場駅下車いずれも徒歩10分
 (元編集委員 川村泰志)


智恵子の歿した翌年(昭和14年=1939)001に作られた「レモン哀歌」は、元々、歌曲の歌詞として作られたものではなく、後世の作曲家の皆さんが曲をつけてくださったもので、「歌碑」というよりあくまで「詩碑」というのが当方の感覚ですが、このコーナーでの紹介、それもありかな、という気はします。

建立されたのは、智恵子没後50年の昭和63年(1988)。尽力してくださった「品川郷土の会」さんの当時の会長・土屋恒行氏、会員の武田喬氏が、昨年、相次いで亡くなりました。今回の記事、お二人にいいはなむけになるような気がします。

ここにあったゼームス坂病院は、大正12年(1923)の創立。院長の斎藤玉男は東京帝国医科大学を卒え、大正3年(1914)から翌年にかけ、ドイツ、アメリカに留学し、日本医科大学教授を経て、同院を開設しました。「学者としても一流で、人柄も温厚篤実の士として知られ、病院経営や精神衛生の制度面などから、多角的に積極的に発言」(『東京の市立精神病院史』昭和53年=1978、東京精神病院協会)したそうです。ちなみに斎藤茂吉は弟子筋に当たります。

昭和20年(1945)には、東芝大井病院と改称、心療内科は無くなりました。さらに同39年(1964)に東大井の現在地に移転、東芝中央病院、東芝病院と名称が変わり、現在に至っています。

碑は推定される智恵子の身長と同じに設計し、150㌢㍍ほど。光太郎の自筆原稿から文字を写しました。


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当方、20年ほど前にたしか2回見に行ったきりで、しばらくここを訪れていません。何やかやで近くの浜松町や駒場東大前などにはしょっちゅう行っていますが、都心ですとかえって「浜松町まで行ったからついでに南品川に」という感覚にならないから不思議です。

都心から離れれば離れるほど、「盛岡に行くからついでに花巻に立ち寄る」「名古屋に用があるのでついでに京都まで足を伸ばす」ということがあるのですが……。

閑話休題。『ハーモニー』さんの記事の最後に「碑の前にはレモンが絶えません。」とあって、数年経つと建てられたことすら忘れ去られてしまう文学碑が少なくない中、ありがたく存じます。

土屋氏、武田氏の追悼も兼ね、近々、20数年ぶりに行ってみようと思いました。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

桃の実は気高くて瑞気があつて いくらか淫靡でやや放縦で 手に持つてゐると身動きをする。 のりうつられさうな気はいがする。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「レモン」ならぬ「桃」。 この頃手がけていた木彫「桃」に関わります。

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彫刻としての桃もそうですが、この詩からも桃のみずみずしい生命感が感じられますね。写真は光太郎令甥・髙村規氏によるものです。