岩手の地方紙『岩手日日』さんの最近の記事から、ご紹介します。
まずは4月2日の花巻での連翹忌。
62度目の命日しのぶ 松庵寺で連翹忌法要
高村光太郎の「連翹忌(れんぎょうき)法要」が2日、花巻市双葉町の松庵寺(小川隆英住職)で営まれた。同日は光太郎の62回忌で、市民ら約20人が、晩年の一時期を同市太田の山荘で過ごした花巻ゆかりの偉人をしのんだ。 連翹忌は、光太郎が生前好んだ花にちなんで命名された。花巻での法要は毎年、花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)が光太郎の命日に合わせ、かつて光太郎の妻の智恵子や父の光雲、母のわかの法要が営まれた縁のある同寺で行われている。
参列者は1人ずつ焼香し静かに合掌。同市南万丁目の高橋輝夫さん(78)は、光太郎が花巻出身の童話作家・宮沢賢治を世に知らしめることに尽力した事に触れ「光太郎は検事や花巻の恩人。滞在当時を知る人もいるが、みな高齢。これからも大事に語り継いでいきたい」と話していた。
同日は同寺で営まれた智恵子の法要を題材とした光太郎の詩「松庵寺」を小川住職が披露した。法要後は参列者による座談会も開かれ、1945年5月以降の7年を花巻で過ごした光太郎の思い出や功績を語り合った。
(2017/04/03)
花巻では毎年、午前中に旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後に松庵寺で連翹忌法要が持たれています。
『岩手日日』さんのweb版では、詩碑前祭の記事はアップされていましたが、紙面に同時に掲載されていた連翹忌法要の記事は、web版にアップされていませんでした。そこで、花巻高村光太郎記念会さんから、記事のコピーを送っていただいた次第です。
続いて、4月10日、高村山荘裏手の智恵子展望台リニューアルお披露目の記事。
詩「案内」の風景一望 智恵子展望台にデッキ 高村記念館整備事業
詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年の一時期を過ごした花巻市太田にある「智恵子展望台」に、改修に伴ってデッキが新設された。10日は地元住民や市の担当者、光太郎顕彰団体の関係者が訪れ、眼下に広がる風景を基に光太郎が物した詩そのままの景観を楽しんだ。 高村山荘近くの丘の上に設けられたデッキは9メートル四方。以前からあったあずまやも、高村光太郎記念館から高村山荘まで約120メートルの遊歩道新設などを含めた2016年度の同記念館整備事業で、デッキとともに市が改修整備した。総事業費は2000万円。
同日は、高村記念会山口支部の照井康徳支部長や花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表、市の市川清志生涯学習部長ら約20人が来訪。共に光太郎の詩を朗読するなどし、偉人を縁とした交流と景観を楽しんだ。
丘の上は、かつて光太郎が亡き妻への思いを募らせたとされることから、「智恵子展望台」として親しまれてきた。これまでは樹木で視界が遮られていたが、デッキが斜面に設けられたことにより、詩「案内」で「展望二十里南にひらけて」とされた風景が一望できるようになった。
小山代表は、実際に光太郎を知る地元住民が高齢なことを踏まえ「光太郎の詩は地元の宝。孫やひ孫にも素晴らしい詩があることを伝えていってほしい」と呼び掛けた。照井支部長は「緑が生い茂る5月の高村祭が今から楽しみ。ぜひ多くの人に足を運んでほしい」と期待を込めた。
1945年の東京大空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、知己の間柄だった宮沢賢治の生家を頼り花巻に疎開。同年10月に当時の太田村山口に移り、52年まで独居自炊の山荘暮らしを続けた。 (2017/04/13)
こちらはweb上でもアップされていますが、上記コピーともども紙面本体を花巻高村光太郎記念会さんが送ってくださいました。また、同会太田支部の浅沼隆さんからも同じものが届きました。
この日取材にいらしていたのが、たまたま当方の顔見知りの記者さんで、そのため写真をでかでかと載せられてしまった次第です(笑)。
最後に、先週から花巻高村光太郎記念館さんで始まった企画展、「光太郎と花巻の湯」の報道。
光太郎癒した湯 きょうから記念館で企画展 使用浴槽など紹介
花巻ゆかりの詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の関係資料を展示する花巻市太田の高村光太郎記念館(中村光一館長)の春期企画展「光太郎と花巻の湯」は、14日から同記念館で開かれる。エッセーや当時の絵はがきなどの資料とともに、光太郎と花巻の温泉のつながりを伝える。光太郎の人となりも感じられるとして多くの来館を呼び掛けている。 光太郎は太平洋戦争で花巻に疎開し、終戦直後から約7年間、旧太田村山口で生活を送りながら作品制作に取り組んだが、この間、持病の神経痛を癒したのが温泉。今企画展は温泉、湯にスポットを当て光太郎と湯の関わりを資料でたどる。
展示資料は、光太郎がポケットサイズの旅行雑誌「作家画家の温泉だより」に寄せた回想録の作品パネルのほか、戦前と見られる温泉施設や路面電車「花巻電鉄」の写真が掲載された絵はがきなど約40点。旅行雑誌で光太郎は、花巻温泉峡、花巻南温泉峡の旅館や温泉街の様子、料理、周辺の自然などに触れながら、「花巻を訪れる時季はやっぱり花の頃がいい。人間に温泉場らしいこすいところがないのが私は好きだ。まったく花巻はいい温泉である」と結んでいる。
展示品で目を引くのが、光太郎が使用していたヒノキ造りの「鉄砲風呂」。一般公開は初めてで、深さと横幅が各90㌢ほど、奥行き70㌢ほどの楕円(だえん)形。浴槽の半分に鋳物製の筒が設置され、筒内でまきなどを燃やして浴槽内の水を温める仕組み。1948年に宮沢賢治の弟清六さんが贈り、村人らの協力で小屋も建てられた。燃料を多く用いることから「自分だけで(燃料を)たいてはすまないです」と話し、ほとんど利用しなかったことが添えられたエピソードに記されている。
企画展を担当した花巻高村光太郎記念館事務局企画担当の高橋卓也さんは「多くの方に湯を通して光太郎と花巻のつながりを感じてもらいたいし、花巻の温泉を高く評価していたことも知ってほしい」と話している。
企画展は6月26日までで、開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入場料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。
こちらもネット上には掲載されず、コピーを送っていただきました。
「鉄砲風呂」に関しては、正しくは「同館での一般公開は初めて」で、前身の花巻市歴史民俗資料館時代に展示されていました。
同展のチラシがこちら。
同館からメールで届いた展示設営状況。
来月15日には、同館敷地内で第60回高村祭も開催されます。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
岩がとろけてわいてゐるのを ひとりでのぞくのは止すがいい。 千八百度の破壊力が たいへんやさしく微笑するから。
詩「大涌谷」 昭和2年(1927) 光太郎45歳
花巻ならぬ、箱根を謳った詩です。光太郎の温泉好きは戦前からで、箱根にはこの年と翌年に訪れています。このブログの左上、プロフィール欄のサムネイルとして使わせていただいている有名な写真もこの年に大涌谷で撮られたものです。
右は翌年。この年は智恵子の母・センも同道しての箱根滞在でした。