4/10、花巻高村光太郎記念館さんを後に、レンタカーを北に走らせました。一路、元々の目的地、盛岡へ。翌日に行われる盛岡地区更生保護女性の会さんの総会の中で、講演をさせていただくことになっておりました。昨年7月、盛岡少年刑務所さんで開催された「第39回高村光太郎祭」の中で行った当方の講演を聴かれた同会会長の及川様がいたく感銘して下さり、ぜひ同会の総会でも、ということになって実現しました。恐縮至極です。
レンタカーを盛岡の営業所に返し、宿へ。昨年と同じ、内丸の北ホテルさんを取りました。建物や経営は代わりましたが、かつて菊屋旅館といっていたところで、光太郎が盛岡に行った際に何度か宿泊していました。
確認できている限り、光太郎は7回、盛岡に足を運んでいます。岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執っていた森口多里や舟越保武、深沢省三・紅子夫妻らの要請によることが多かったのですが、その都度、少年刑務所などいろいろなところで講演などを行いました。そうした際の多くは菊屋旅館に宿泊したようです。
チェックイン後、2階のレストラン「窯」さんへ。こちらで夕食を兼ね、更生保護女性の会さんの役員の方々と打ち合わせでした。その後は例によって早めに就寝。
翌朝、少し時間がありましたので、付近を歩きました。
ホテルにほど近い、地方裁判所前の、有名な石割桜。
本当に岩の裂け目から伸びています。
花はさすがにまだ咲いていませんでした。満開になるとこうなるようです。近くにあった説明版から。
ちなみに、千葉の自宅兼事務所から徒歩20秒の公園(隠れた桜の名所)は、こうなっています。
続いて中津川の方へ。
去年歩いた時には気づきませんでしたが(というか、そこを歩きませんでした)、岩手テレビさんの庭園に建つ、光太郎を敬愛していた舟越保武の彫刻。舟越の作品は、遠目でもそれと判ります。それが「個性」というものなのでしょう。
川辺では、カモさんたちがお食事中。
ホテルへ戻り、荷物を抱えて路線バスに乗って、盛岡駅へ。会場のいわて県民情報交流センターアイーナさんは、駅の反対側でした。
8階に上がり、会場のセッティングをお手伝いし(女性の方ばかりでしたので、皆さん高いところに手が届きません)、こちらもプロジェクタの位置調整などなど。それが終わると暇になりましたので、階下の岩手県立図書館さんへ。この建物の中に県立図書館さんが入っているというのは存じませんでした。知っていれば事前に細かな蔵書検索等で目星をつけていたのですが……。こちらも次の機会にします。
それでも開架の郷土資料コーナーに、岩手出身の光太郎の周辺人物の関連で、興味深い書籍がたくさんありました。宮沢賢治をはじめ、石川啄木、舟越保武、宮静枝、深沢夫妻、野村胡堂などなど。
そうこうしているうちに時間が経ち、さらに階下へ降りて昼食を摂り、8階の会場に戻りました。
午後2時から、更生保護女性の会さんの総会です。来賓の方々を含め、150名近くがご参集。当方の出番は最後ですが、それまで会場の一番後ろで拝聴しました。
年に一度の総会ですので、前年度の活動報告などがありました。実に様々な活動に取り組まれていて、感心させられました。少年鑑別所、少年院、少年刑務所、保護観察所などでのボランティア活動、その他、地元の祭礼や幼稚園、児童養護施設などでも活動されています。頭の下がる思いでした。
休憩を挟んで、当方の講演。順風満帆とはほど遠く、つまづきの連続だった光太郎の一生をダイジェストでご紹介しました。つまづいて転んでも、道を踏み誤っても、八方ふさがりになっても、そのたびにまた立ち上がり、新たな道を模索し続けた光太郎の生涯が、更生保護に携わる皆さんの、というより、皆さんが関わる保護対象者へのエールとなるように、と考えてお話をさせていただきました。
ついでと言っては何ですが、前日に花巻高村光太郎記念館さんでパンフレットと新しいチラシを150部ずついただき、参会の皆さんに配布。講演の最後に宣伝させてもらいました。お義理かもしれませんが(笑)、ぜひ行ってみたいという声が多く、少しは役だったかなと思いました。
また、今回は盛岡市、滝沢市、雫石町で活動されている方々が対象でしたが、花巻から嫁に来たという方もいらっしゃり、さらに驚いたことに、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの旧山口小学校の卒業生だという方までいらっしゃいました。
さらに、これもお義理かも知れませんが(笑)、宿泊を伴う研修旅行では、九十九里や二本松など、光太郎智恵子ゆかりの地にも行ってみたいという声もあり、嬉しい限りでした。
というわけで、1泊2日の予定を終え、盛岡駅から東北新幹線で帰路につきました。有意義な2日間でした。
以上、岩手レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
いくら目隠をされても己は向く方へ向く。 いくら廻されても針は天極をさす。
詩「詩人」 昭和2年(1927) 光太郎45歳
たった2行の短い詩です。短い詩ですが、ある意味、すべての光太郎詩の中でも、最もその目指すところが顕現されていると言っても過言ではありますまい。
後半の「いくら廻されても……」、またはその類似の語句は、光太郎自身、好んで揮毫したり、木に彫ったりもしました。