4/10、正午過ぎに、当方がアドバイザー的なことをさせていただいている花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんに到着しました。
さすがに雪は消えていましたが、日陰にはまだこのように残っていました。このあたり、花巻市街より標高も高く、気温も低いのです。
正面入口には大きな新しいタペストリー。写真家の故・内村皓一氏撮影の光太郎スナップで、先頃、花巻市立萬鉄五郎記念美術館さんで開催された「光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~」の際に作成されたものを譲ってもらったそうです。いい感じです。
受付脇には、山小屋(高村山荘)で暮らしていた頃の光太郎の食事に関する展示。
館の女性職員の方々が中心となり、昨年あたりからこうした方面もいろいろやられているようで、地元テレビでも紹介されたり、当方も実際にいただいたりしました。また、今月創刊のタウン誌『Machicoco/マチココ』に、「光太郎のレシピ」として連載されるそうです。詳細は後ほど。
さて、関係各所から最近見つかったという、光太郎の遺品などを拝見。昭和20年(1945)の空襲で全焼した東京駒込林町のアトリエから持ち出した、光太郎の日記にもその存在が記されている舶来もののようでした。当方のあまり詳しくない分野のものですが、それが本当に日記に記されているとおりのものであれば(恐らく間違いないと思われます)、その筋の専門家によると、とんでもない逸品だとのこと。いずれ詳細が発表できる段階になりましたらご報告します。
さらに、館の運営を担っている花巻高村光太郎記念会の会長・佐藤進氏が院長をされていた総合花巻病院に保管されていた、光太郎から氏の父君である故・佐藤隆房氏に宛てた書簡類、そして光太郎以外の周辺人物から隆房氏宛の書簡類など。光太郎からのものは、すべて『高村光太郎全集』に収録されているはずですが、もしかすると漏れがあるかもしれません。まだ精査をしていないということで、当方も協力して進めて行きます。また、周辺人物からの書簡類も、ざっと見せていただいただけでも興味深い記述が多く、こちらもいずれ発表できる段階になりましたらご報告します。
そうこうしているうちに、同じ敷地内の高村山荘裏手にある智恵子展望台リニューアルお披露目の時間となりましたので移動。
敷地全体で、かつて無計画に植えられ、手入れもされていなかった杉などの伐採が進み、道も舗装などが進んでいました。
さりとて、自然を壊すではなく、全体にすっきりしたという感じでした。周辺にはミズバショウやカタクリ、光太郎も好んで食べたバッケ(ふきのうとう)。ようやく春が巡ってきたという感じです。
池にはなんと、サンショウウオの卵だそうで、これには驚きました。
急な坂を上り、リニューアルされた智恵子展望台へ。光太郎が夜な夜なここから「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。
9㍍四方のデッキが新設され、雑木を伐採したり刈り払ったりで、だいぶ展望がよくなりました。
足下には昭和41年(1966)に建てられた旧記念館。
地元の皆さんが集まってこられました。光太郎がここに住んでいた頃をご存じの方も多くいらっしゃいます。
皆さんで、ソロ、或いは群読の形で、この地を舞台にしたさまざまな光太郎詩を朗読。「雪白く積めり」「案内」「メトロポオル」「岩手の人」などなど。
さらに、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長の横笛を伴奏に、旧山口小学校校歌斉唱。光太郎の作詞ではありませんが、光太郎や草野心平による指導の元に作られたとのこと。
泉下の光太郎も喜んだことでしょう。
20分ほどで終わり、再び記念館へ。
明日から始まる企画展「光太郎と花巻の湯」の展示パネルが業者さんから届いたところで、拝見しました。
上部の画像は、当方手持ちの古絵葉書からスキャンしたもの。光太郎が足繁く通った大沢温泉さん、鉛温泉さん、花巻温泉さん、志戸平温泉さんなどについて、光太郎や周辺人物が書き残した文章、当方執筆の解説などが書かれています。
それから、温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた風呂桶も展示されます。
桶を作ってくれた大工さんに贈った「木竹諧和」と書かれた書が残っています。「諧和」は「調和」の類義語で、大工さんに贈るにはもってこいの言葉ですね。
しかし、この風呂を沸かすには大量の薪が必要で、ほとんど光太郎は使わないまま、近くの開拓地に入植した青年にあげてしまったそうです。光太郎の没後、おそらくその青年の元から再び戻され、かつては高村光太郎記念館の前身だった歴史民俗資料館に展示されていました。最後の画像にある貼り紙的な説明は、その当時のものです。
一見すると、身長180センチ以上あった大男の光太郎には小さいかな、という感じでした。そのわりに薪が大量に必要となると、たしかに不経済ですね。
その代わりに、光太郎は足繁く温泉に通ったようです。
最後に、受付兼売店で、CDを購入しました。花巻町で結成された児童劇団「花巻賢治子供の会」主宰の照井謹二郎・登久子夫妻のお嬢さんで、ご自身も「花巻賢治子供の会」で演じられていた谷口秀子さんの朗読CD「思い出の高村光太郎先生」。
2枚組で、光太郎の詩、随筆、日記が収められています。帰ってきて拝聴しましたが、温かみのある朗読でした。
「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。やがて谷口さんは東京の大学に進学、時を同じくして光太郎も「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京し、交流がつづいたとのこと。
そのあたりの思い出が、昨年、当方が監修、一部執筆し、記念館さんで刊行した『光太郎 Kotaro Takamura』に掲載されています。
また、CDに付いている小冊子にも同様の小文、さらにお母様の登久子さんの回想、光太郎からの書簡、贈られた書、写真などがてんこ盛りで、貴重な資料です。
CD自体は平成25年(2013)の発売で、当時の『岩手日報』さんで紹介されており、入手したいと思いつつ果たせなかったものでした。おそらく『光太郎 Kotaro Takamura』刊行の関係で、記念館さんに入荷されたのだと思われます。ラッキーでした。
ちなみにCDを入れていただいた袋がこちら。
光太郎智恵子とおぼしきかわいらしいイラストが入っています。記念館さんも様々なところでご努力されています。
花巻高村光太郎記念館、企画展「光太郎と花巻の湯」。明日からです。常設展示も充実しています。ぜひ足をお運び下さい。
明日は岩手レポート盛岡編をお届けします。
【折々のことば・光太郎】
法をおきかせください、 自分を辱めずに餓死せぬ法を、 あさましい律(おきて)に服せずに生きられる法を。
詩「花下仙人に遇ふ」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳
この頃の光太郎、彫刻や詩が徐々に世の中に認められて来てはいましたが、相変わらずの生活不如意。時には生きて行くために、意に沿わない仕事も引き受けざるを得ませんでした。そういうことをせずに生きていける方法を、夢幻の中で出会った仙人に問うているというシチュエーションです。結局は、そんなことが出来ようはずもなかったのですが……。