一昨日から昨日にかけ、1泊2日で行って参りました岩手をレポートいたします。

午前4時30分、千葉の自宅兼事務所を出まして、午前9時59分、東北新幹線新花巻駅に着きました。もう少し遅い到着でもよかったのですが、最初の目的地である花巻高村光太郎記念館さんに行く前に、光太郎ゆかりの地を久しぶりに見て回ろうと思い、早めに行きました。花巻に行った際にはたびたびそうしております。今回はレンタカーを借りており、比較的遠くまで行けましたので、花巻に隣接する北上市の北部を回りました。

まず向かったのが、二子町にある飛勢城趾。こちらには光太郎の詩碑があります。

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008竹下内閣の際のふるさと創成事業で全国各市町村に配られた1億円を使い、北上市では平成3年(1991)、市内6ヶ所に文学碑を建立しました。若山牧水、子日庵一草、寺山修司、浜夢助、豊田玉萩、そして光太郎です。

碑が建って少し後に拝見に行ったときのものが右の画像。お城の高台で、背後に北上川の展望が開け、いい感じでした。

刻まれているのは詩「ブランデンブルグ」昭和22年(1947)の一節。

 高くちかく清く親しく、
 無量のあふれ流れるもの、
 あたたかく時にをかしく、
 山口山の林間に鳴り、
 北上平野の展望にとどろき、
 現世の次元を突変させる。

この年、花巻町で行われた稗貫郡農会でのレコードコンサートでこの曲を聴いた印象が元になっています。太田村の山小屋(高村山荘)の近くを歩きながら、この曲が幻聴のように聞こえていた、というエピソードも伝わっています。

 やはり山の中で、まだ手許にラジオのないときに、バツハの「ブランデンブルグ協奏曲」を幻聴で聴いたことがある。ちようど谷の底の方から聞えてくるもんだから、私はとりわけバツハが好きでもあるし、あとで谷底の家へ行つて、そのレコードをもう一度聴かせて貰いたいと頼みに行つたら、そんなものはないというので驚いた。考えてみれば、月に一度花巻の町に出かけて行つて聴かせて貰つていたのが再生されて聞えたものだと気がついた。そんなとき、音楽は人間に非常に必要なものだということをしみじみ感じた。
「ラジオと私」(昭和28年=1953)

昭和25年(1950)に、光太郎が黒沢尻町(現・北上市)の文化ホールで講演を行い、その際にこの詩を引き合いに出したことがもとで、この詩が選ばれました。

詩碑の手前には展望台があり、まずそちらに上りました。遠くの山々はまだ雪に覆われていました。

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そして展望台の下にある碑へ。ちょっとショックでした。碑自体はほとんど損傷もありませんでしたが、碑の周囲の灌木や雑草が茂り放題で、昔見えた眼下の展望は、何一つ見えません。

最近まで雪が積もっていたため、そんな感じなのかな、とも思いましたが、どうも灌木は何年も刈った気配が無いようにも見えます。

言いにくいのですが、この手の文学碑の中には建てて建てっぱなし、しばらくたつと地元でもその存在すら忘れられてしまうというものが少なくありません。この碑もそうなりつつあるような気がして、残念でした。碑自体が草木に埋もれていないのが、まだ幸いなのかもしれません。


続いて同じ北上市北部の和賀町後藤地区にある、平和観音堂に向かいました。こちらを訪れるのも20年ぶりくらいです。
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こちらにも光太郎詩碑が建っています。昭和27年(1952)の建立です。刻まれているのは、無題の詩、というより七五調四句の「今様」という形式のもので、以下の通りです。

観自在こそ たふとけれ 
まなこひらきて けふみれば
此世のつねの すがたして
わがみはなれず そひたまふ
 
「観自在」は観音菩薩のことです。

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確認できている限り、光太郎生前に建てられた詩碑は3基しかなく、そのうちの一つです。ちなみに他の二つは、花巻温泉に建つ「金田一国士頌」碑(昭和25年=1950)、福島県南相馬市小高地区にある「開拓碑」(昭和30年=1955)です。その二つの碑文は光太郎の手になるものではありませんが、この碑は光太郎の筆跡をそのまま石に写し取っています。

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碑陰記的なものが、碑の下部に。

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曰く「碑文を高村光太郎先生 太田村山口にて揮毫 平和観音堂に奉納 昭和廿七年九月 高橋峯次郎

高橋峯次郎は光太郎と同年の明治16年(1883)生まれの元小学校教師。自らも日露戦争への従軍経験を持ち、その後は永らく教師を務めましたが、その間の教え子約500人が出征、約130人が遺骨で帰ってきたそうです。その霊を弔うため、寄付も集めず自費で観音堂の建設を発願、光太郎に本尊の彫刻を依頼しに来ました。しかし光太郎は彫刻制作を封印している最中で、代わりにこの書を高橋に贈ったというわけです。

高橋の元には、教え子たちからの7,000通を超える軍事郵便が届き、平成13年(2001年)には、それを紹介する岩手めんこいテレビさん制作の「土に生きる ~故郷 ・家族、そして愛~」が放映され、反響を呼びました。500人もの教え子を戦地に送り、その3分の1が骨になって帰ってきたという過酷な体験から生まれた観音堂。「わが詩をよみて人死に就けり」と書いた光太郎にも、高橋の思いが我がことのように身に染みたのでしょう。高橋と光太郎、一個人によるものではありますが、どこぞの何とか神社などとは違う、これこそ戦没者追悼の顕現ですね。

境内には高橋の胸像も。

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さらに高橋の発願になる梵鐘も。

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謹んで打鐘させていただきました。

こちらは地元の方々の手入れが行き届いているようで、狭い境内でしたが、清々しい感じでした。

ここから花巻高村光太郎記念館さんはそう遠くなく、レンタカーをそちらに向けました。車窓からの風景がこんな感じ。もちろん停車して撮りました(笑)。

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長くなりましたので、以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

彼は憤然として紙をとる。 怒りの底から出て来たのは、 震へる手で書いてゐるのは、 おゝ、何のテエマ。 怒れる彼に落ちて来たのは、 歓喜のテエマ。

詩「二つに裂かれたベエトオフエン」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「ブランデンブルグ」のバッハ同様、ベートーヴェンも光太郎は好んで聴いていました。フランス革命の理念を守る英雄であったはずのナポレオンが一転して皇帝に就任したことを非常に怒ったベートーヴェン。光太郎はそのあたりに親近感を抱いていたようです。

また、晩年には怒りの中から第9交響曲「歓喜の歌」が生み出され、「怒」と「笑」をテーマにしていた光太郎の琴線に触れたようです。