2日に執り行いました第61回連翹忌の席上で、参会の皆様からいろいろいただきましたのでご紹介します。

日本文学誌要 第95号

2017年3月24日 法政大学国文学会編・発行007

光太郎と交流のあった山梨県出身の詩人、野澤一(はじめ)のご子息・俊之氏からいただきました。今号から始まった、同大教授の中丸宣明氏の連載、「法政ゆかりの作家たち 野沢一(1)」が掲載されています。光太郎にも触れる箇所があります。

昨夏発行だった同誌の前号には同じ中丸氏のご講演「忘れられた!?文学者たち 野沢一・清水泰夫・羽田中誠など ―法政ゆかりの作家たち序―」の筆録が掲載されており、それを踏まえての連載だそうで、野沢の簡略な評伝となっています。

野沢一は、法政大学中退。昭和初期、卒業間際になって、思うところあって山梨県の四尾連湖畔で5年にわたる独居自炊の生活を始め、それが後の光太郎の花巻郊外太田村での山小屋生活にも影響を与えたと考えられます(他にも同様の行為をしていた光太郎の友人知己は少なからずいますが)。

東北文学の世界 第25号

2017年3月14日 盛岡大学文学部日本文学科編・発行008

当方も加入しています高村光太郎研究会主宰で、都立高校教諭の野末明氏の論考「高村光太郎詩集『典型』成立考」が掲載されており、野末氏からいただきました。

光太郎の詩集『典型』は、花巻郊外太田村に隠棲中の昭和25年(1950)に刊行されたものです。選詩集的なものを除けば、光太郎生前最後の単行詩集となりました。

その詩集『典型』の成立過程、出版後の評価、「編者」となっている詩人・宮崎稔などについて書かれた労作です。ただ、固有名詞に数ヶ所誤りがあり、その点が残念でした。

興味深いのは、國學院大学図書館に所蔵されている、光太郎自筆の『典型』装幀原案が画像入りで紹介されていること。2種類あり、時期的に古い方は10年ほど前にひょっこり古書市場に出たものですが、いわば第二稿の方は当方も存じませんでした。

「典型」の題字は、光太郎の手になる自刻木版です。その他様々な指示が書き込んであります。

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いずれつてを頼って現物を拝見したいと思っております。

高村光太郎研究(38)

2017年4月2日 高村光太郎研究会編・発行009

上記の野末氏が主宰されている高村光太郎研究会の会誌的なものです。

当会および高村光太郎研究会の顧問、北川太一先生の玉稿「高村光太郎・最後の年 (4)」が巻頭に掲げられています。光太郎の亡くなった昭和31年(1956)の日記を軸に、記されている人物や事項に適宜解説を加えたものです。

その後、当方の稿が3本。元々、連載として、一年間に見つけた新発見の光太郎文筆作品等を紹介する「光太郎遺珠」、さらに一年分の「高村光太郎没後年譜」を書かせていただいていますが、それプラス、昨秋の第61回高村光太郎研究会で発表させていただいた、当会の祖・草野心平と光太郎の交流についての稿も載せて下さいました。

さらに野末氏による「高村光太郎文献目録(平成二十八年一月~十二月)」、「研究会記録、寄贈資料紹介、あとがき」が掲載されています。


冊子ではありませんが、花巻高村光太郎記念館さんの下記チラシも頂きました。

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来週14日から、企画展「光太郎と花巻の湯」(当方手持ちの資料も展示されます)が始まり、さらに記念館と隣接する光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の「智恵子展望台」が整備され直したとのことで、新しいチラシが作られました。

智恵子展望台に関しては、地元の方々に完成記念のお披露目的な催しを明日の午後に行うということで、行って参ります。元々は、明後日、盛岡で開かれる「盛岡地区更生保護女性の会」さんの総会の中で講演を頼まれており、そのついでに花巻に立ち寄って、企画展の展示作業を見せていただくだけのつもりでしたが、なにやら大げさなことになってしまって、恐縮しております。

そのあたりは帰ってきましたらレポートいたします。

上記いただきもの類ご入用の方、こちらまでご連絡いただければ、仲介できるものは仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【折々のことば・光太郎】

怒とは何。 怒とは存在の調革(しらべかは)。

詩「怒」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「調革」は「調べ帯」ともいい、二つの車輪にかけ渡して 一方の回転を他方に伝えるための帯状のもの。エンジンのファンベルト、或いは昔のミシンを想像していただければわかりやすいでしょうか。

「怒」によって、自分の人生は回っているのだ、と光太郎は言います。この後、一時的にプロレタリア詩人達に近い立ち位置に入っていく光太郎、様々な社会矛盾に黙っていられないといった感じでした。