このブログでご紹介している内容は、主に以下のようなものです。これから行われる光太郎、光雲、智恵子関連のイベント等のご案内。それらに足を運んでのレポート。新刊出版物等のご紹介。関連するテレビ番組等のご紹介。新聞記事等で光太郎らにふれられたもののご紹介、などなど。

そういったものが集中する時期には、半月先まで記事の内容が決まっていたり、一回の投稿で何件もご紹介したりということもあるのですが、逆にネタに困ることもあります。あまりにも先に行われるイベントをご紹介しても仕方がありませんし、新刊書籍も版元のサイトで情報がアップされていないなどの場合には、ご紹介しにくい部分があります。

今がまさにその状態で、情報が少なく、困っています。

そこで、今回は、最近入手した古資料について。新刊書籍等は「皆様もぜひお買い求めください」的なまとめ方ができるのですが、古資料ですと、それができないので、あまりご紹介してきませんでした。

背に腹は代えられないので、こうした機会にご紹介しておきます。今回は、光太郎編。

筑摩書房さん刊行の『高村光太郎全集』に漏れているものの収集、というのが当方のライフワークでして、そういう関係がメインです。

まずは書簡。

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光太郎晩年、昭和28年(1953)4月10日付で、中央公論社の編集者・岩淵徹太郎に宛てたはがきです。とある古書店さんのサイトで見つけ、購入しました。

曰く、

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、
此間は久しぶりでおめにかかりましたが、この前よりも大変健康になられたやうに見うけました、

岩淵宛の書簡は、『高村光太郎全集』に5通掲載されていますが、これは漏れており、従前のものを補うものです。光太郎の住所は中野区桃園町四八 中西氏方。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、その制作まっさかりの時期です。

選集」は、この年一月に完結した『高村光太郎選集』全六冊。誰かに進呈するためにセットで注文したものと思われます。「此間は久しぶりでおめにかかりましたが」とありますが、4月7日の日記に岩淵来訪の記述があります。

内容的にそれほど重要なことが書かれているわけでもありませんし、光太郎の書簡はすでに3,400通ほどが知られていて、珍しいものではありませんが、味のあるいい字ですし、それなりに貴重なものです。


続いて雑誌『キング』第5巻第9号。昭和4年(1929)9月の発行です。

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002現在の講談社さんの前身、大日本雄弁会講談社の発行していた総合雑誌です。

これに、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎の文章が掲載されています。「ある日の日記」という総題で、光太郎、町田経宇(陸軍大将)、鈴木伝明(俳優)、朝倉文夫、山本久三郎(帝国劇場専務)の5人の日記が載せられています。

この時期の日記帳そのものの現存が確認できていないので、実際の日記からの抜粋なのか、このために書き下ろされたのか、あるいはこのために実際の日記を換骨奪胎したりふくらませたりしたのか、何とも言えませんが、光太郎に関しては、「六月十日」ということで、その日の出来事が記されています。

内容的には主に2点で、1点目は、改造社から刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集/現代俳句集』のために、自作短歌を選んだこと。「記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。」とあります。ちなみに同書に掲載された光太郎短歌は四十四首。この違いは何なのか、謎です。

笑ってしまったのは、海外留学のため、横浜港から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン船上での作「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」という短歌(明治39年=1906)についての記述。「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」たしかに当方もこの歌の書かれた短冊を持っています。

後半は、智恵子の母校・日本女子大学校から同窓会誌『家庭週報』の記者が訪れたことが書かれています。大正8年(1919)、同校創設者の成瀬仁蔵の胸像を光太郎が依頼され、なかなか完成しないため(結局、昭和8年=1933までかかりました)、時折同校関係者が光太郎をせっつきに来ていました。この際の記事が、同じ年の6月28日発行の『家庭週報』第990号に掲載されてもいます。光太郎、呑気に記者が持参した手作りの洋菓子「クレーム フアンティーヌ」を賞味しています(笑)。
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比較的長い文章ですが、『高村光太郎全集』に漏れていました。その理由は、おそらく、目次。目次には光太郎の名が無く、「各方面五名士」となっているのです。

そこで、同じ時期の『キング』に、同じようにこれまで知られていない光太郎の文章が載っている可能性もあると思い、駒場の日本近代文学館さんに行って、片っ端から調べました。するとやはり、目次に「諸名家」とだけあって、氏名が明記されていない記事がたくさんありました。しかし、光太郎のものは新たに結局発見できませんでした。

代わりに、やはり日本近代文学館さん所蔵の資料の中から、『高村光太郎全集』未収録の短歌を見つけました。掲載誌は明治39年(1906)刊行の『新詩辞典』。短歌の作り方テキスト的な書籍です。

作例、ということで、与謝野晶子ら多数の歌人の作品が載っており、光太郎の短歌も18首。その中で1首だけ、これまでに知られていなかったものが含まれていました。

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一刷毛(ひとはけ)のそれは上総か春の海光ましろき雲ながれゆく

クレジットは新詩社における光太郎の号「砕雨(さいう)」です。

上記の「海にして……」同様、太平洋を渡る船中での作なのか、それとも千葉方面を旅した際の作なのか、何とも言えません。この時期に千葉方面への旅行という記録が残っていません。あるいは東京にいて、「あの雲の真下は上総あたりかな……」的なことも考えられますし……。


というわけで、まだまだ眠っている光太郎文筆作品等はかなりありそうです。今後もその発掘に力を尽くします。


【折々のことば・光太郎】

印度産のとぼけた象、 日本産の寂しい青年、 群集なる「彼等」は見るがいい、 どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

詩「象の銀行」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

明治39年(1906)から翌年にかけての滞米体験を下敷きとしています。セントラルパークの動物園で、客の投げる硬貨を上手に鼻で拾って貯金箱的な入れ物に入れる象を謳っています。

遠い異国からやって来たもの同士ということで、光太郎はこの象に奇妙な親近感を抱いていました。排他的な雰囲気のあったニューヨークは、光太郎にとってあまり居心地がよくなかったようです。