このブログ、このところ、東日本大震災ネタで来ましたが、3.11当日、当方、都内に出ておりました。
文京区立森鷗外記念館コレクション展「死してなお―鴎外終焉と全集誕生」の展示関連講演会 「与謝野夫妻の崇敬の師 森鷗外」を拝聴のためです。
昼過ぎに千駄木に到着、鷗外記念館さんのすぐ近くにある、巴屋さんというお蕎麦屋さんで昼食を摂りました。こちらはかつて、光太郎の実家によく出前を届けていたというお店です。
天麩羅蕎麦1,100円也をいただきました。
いざ、森鷗外記念館へ。かつての鷗外邸、観潮楼の跡地で、近所に住んでいた光太郎も、歌会に参加したり、鷗外に呼びつけられたりで何度か訪れています。
講演会は2階講座室での開催。定員50名の募集でしたが、ほぼ満席でした。
講師は与謝野夫妻のご研究の第一人者、逸見久美先生。演題は「与謝野夫妻の崇敬の師 森鷗外」ということでした。
文久2年(1962)生まれの鷗外と、明治6年(1873)生まれの与謝野鉄幹、そして同11年(1878)生まれの晶子。まずは鉄幹が、鷗外共々尊敬していた落合直文の紹介で、鷗外の知遇を得ます。鷗外も鉄幹の才を認め、その著書の序文を執筆してやったり、新詩社に関わったり、大正期の『明星』復刊の際にも力を貸したりしました。また、光太郎も参加した観潮楼歌会は、相反する歌人達の融和を図るというのも目的だったそうです。
鉄幹は、鷗外を敬愛し続け、その逝去に際しては葬儀委員長を務め、歿後には『鷗外全集』の刊行に尽力しました。
そのあたり、非常にわかりやすいお話で、光太郎も登場し、興味深く拝聴しました。乱暴なたとえをすれば、後の光太郎と草野心平の関係のようなつながりが、鷗外と鉄幹にあったといえるのでは、と思いました。
その他、逸見先生のお父様で、『週刊朝日』の編集長だった翁久允の話題も出ました。ちなみに、久允あての光太郎書簡も遺っており、以前に情報をご提供いただいています。で、久允は晩年の竹久夢二を援助をし、幼い逸見先生を描いた夢二の絵も残っているとのこと(プロジェクタで拝見しました)。昨年には風間書房さんから『夢二と久允』というご著書が刊行されていました。こちらは存じませんでした。早速購入いたします。皆さんもぜひどうぞ。
下は講演会終了後、逸見先生を囲んで。当方は写っていません。
以前にもご参加いただきましたが、4月2日の連翹忌にご参加下さるとのことで、ありがたいかぎりです。逸見先生のお話をお聴きしたい、という方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
おとなしさうで、いたづらさうで、 役に立ちさうで、遊びたさうで、 あらゆる可能性がしまつてある君のからだは 海にこぎ出すボオトのやうだ。
詩「少年を見る」より 大正14年(1925) 光太郎43歳
子供に恵まれなかった光太郎智恵子夫妻でしたが、光太郎はこのように、少年や少女に対する温かい眼差しをモチーフとした詩も、けっこう書いています。